閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

668 葱と天かす生卵

 この一文をものしてゐる現在、外でめしを喰ふのは憚られる。流石に石を投げられる心配は無いけれど、何とはなしに遠慮しなくちやあならない気分や雰囲気がある。ひとりでふらつと、麦酒ともつ煮と串焼きで半時間呑むくらゐなら平気だらうと理窟は浮びはしても、實行に移す自信は持てない。

 尤も探せば例外は見つかるもので、立食ひ(でなくてもそれに近い)蕎麦屋がそれにあたる。計つたことはないが、店に入る註文する出てくる払ふ自分の場所に立つ啜る出る、をひとつの流れとして、精々が十分かそこらだと思ふ。稲荷寿司やかつ丼、カレー・ライスとのセットなら、もちつと掛かりさうだが、さういふ組合せは町中の寂れた蕎麦屋…品書きにカレー・ライスだけでなく、中華丼やラーメン、季節によつては冷し中華まで乗せてあつて、蕎麦より寧ろそつちのがうまい店で註文するのがあらほましい。

 少くなりましたな、一体何を主に食べさせるのか、はつきりしない店は。何年か前に畳んだのだが、ラーメン(醤油と塩と味噌)、チャーシューメンとタンメン、ソース焼そばと堅焼きそば、炒飯(五目と海老とあんかけ)、麻婆豆腐と麻婆茄子、中華丼とかつ丼、餃子定食と(肉)野菜炒め定食と鯵フライ定食とハムカツ定食、春巻と焼賣と焼ソーセイジとハム・エッグと春雨ソップと搔き玉子ソップとその他諸々(このその他諸々が覚えきれないほど)を出す店があつた。壁がそのまま品書きになつたやうで、實際に全部のメニュが用意出來たのものか。ああそれ、もうやつてないよと云はれるのも何品か…もしかすると何割かあつたとも思ふが、残念なことに確める術が無い。

 この手の店なら何をどう註文してもいい。ソーセイジで麦酒をやつつけ、肉豆腐定食で麦酒を追加してから、春雨のソップで〆ても文句は云はれまい。天麩羅蕎麦とカレー・ライスを平らげるなら、かういふ店…蕎麦屋が似合ふので、立食ひ蕎麦屋では蕎麦を啜るのに集中しなくてはならない。尊敬する吉田健一は旅の途中、乗継ぎの驛で"かけに生玉子を入れたの"を方々で食べたさうで、成る程立食ひはかくあるべしと思はされる。實際、驛の立食ひで啜るのに好都合なのはかけ蕎麦なのだが、わたしは乗継ぎ驛で蕎麦を啜る機会を殆ど持たないから、種ものを撰ぶ場合がある。大体はたぬき蕎麦。稀に春菊の天麩羅や掻揚げ蕎麦、或は天玉蕎麦を奢つたりもする。贅沢だなあ。

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 過日、たぬき蕎麦を啜りたくなつた。それで以前から何度か食べたことのある店に入つた。店と云つてもここまでの流れで判るとほり、立食ひに近い(一応椅子はある)場所で、入つて椅子を引きながら

 「たぬき蕎麦…に卵を入れてくださいな」

と註文した。たぬき蕎麦を啜りたかつた筈なのに、卵も入れてもらつた理由ははつきりしない。そんな気分になつたからだと云つておく。

 我が親愛なる讀者諸嬢諸氏ならどうするか知りたいのは、生卵を落とした蕎麦を啜る時、その卵…特に黄身をどう扱ふだらう。わたしは何もしない。詰り葱も天かすも混ぜない普段のたぬき蕎麦と同じやうに啜る。さうしてゐると、いつの間にやら黄身が崩れる。卵が混つたところと混らないところと、あれこれ味はひが変るのが嬉しく、蕎麦つゆの口当りがやはらかくなるのも宜しい。三百廿円でこれだけ樂めれば上等と云つていいでせう。十分そこそこで満足して店を出ると不意に、"葱と天かす生卵"と中下の七五が浮んだ。頭をどうすればいいのか解らなかつたから、そのままにしてある。