閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

674 さくとざくの間

 さくりさくりが天麩羅。

 ざくざくざくがフライ。

 擬音で云ふとそんなちがひだと思ふ。

 どちらもディープ・フライ…たつぷりの油で揚げる点は共通してゐるのに、どこでちがひが出るのかと思つて、ざつと調べてみたら、要するに衣が異なるかららしい。

 天麩羅は小麦粉。

 フライはパン粉。

 成る程、纏ふものがちがへば、歯触りや口当りがちがふのも納得はゆく。

 海老、烏賊、玉葱。

 この辺りは天麩羅でもフライでも種であるし、どちらで料つてもうまい。なので比較は六づかしい。

 尤も多少の例外はあつて、牡蠣はフライより天麩羅…大根おろしをたつぷり入れた天つゆで食べるのが旨いと思ふ。何しろ牡蠣自体、味が濃い。フライにして、チリー・ソースを垂らしたウスター・ソースやタルタル・ソースを添へると、些かくどい。胃袋の年齢やら、舌の好みがあらうから、反駁が出ても、そこを認めるのに吝かではない。

 

 話を少し戻しますよ。天麩羅とフライは、どつちも大量の油で浸し揚げる技法…ディープ・フライが共通してゐる。さてここで疑問なのだが、かういふ調理法は世界でどの程度、一般的なのだらう。

 ウィンナ・シュニッツェルといふ仔牛のカツレツがありますな。たいへん旨い。ただこれは我われがカツレツと聞いて聯想する分厚い肉ではなく、薄く叩いた仔牛肉の平べつたい揚げ焼きだから、初見は違和感がある。

 中國料理にはかういふ食べものの印象は無い。衣をつけず丸揚げにするか、大皿に乗せた魚なり野菜なり肉なりに熱い油をかけまはす感じがある。フランスやスペイン、地中海方面のイタリーやギリシアやトルコの料理にも、油にどつぷり浸し揚げる食べものの印象を持てない。

 實際のところは知りませんよ。トルコ風羊のディープ・フライだの、ギリシア式蛸のオリーヴ油天麩羅があつても、不思議ではない…と思ふ。まして中國なら、何だかよく解らない山鳥やら川魚に、何だかよく解らない植物を挽いた粉をまぶして、揚げものを作るくらゐ、平気でやつてゐさうでもあつて、いや實際は知らないのだけれど。

 

 かう書きながら、天麩羅とフライには大きなちがひ…丼ものに出來るかどうかがあると気が附いた。海老天は丼になつても、海老フライはならないでせう。もしかしてバタ・ライスに海老フライを麗々しく乗せ、タルタルやデミグラスのソースをかけた丼があるのだらうか…胸焼けしさうだなあ。

 更にもうひとつ。天麩羅には掻き揚げがあるが、フライに同様または近似は無ささうに思ふ。小海老に小柱、牛蒡に人参に玉葱に春菊を、大きくふはりと揚げるのは、我が國獨特の調理法ではなからうか。フランス人なら獸肉や野菜の切れ端、茸だの栗だのでオリエンタル・フライ・ア・ラ・ジャポネーゼくらゐ、仕立てさうなものだが…掻き揚げの姿は、かれらの美意識にあはない可能性がある。

 そこで落ち着いて考へるに、ディープ・フライは相当に贅沢な調理法ではないか。油と火のどちらも大量に必要だからで、こんな食べものを(気らくに)口にするには、社会がその贅沢を許す程度に成熟し、安定し、また活發でなくてはならない。天麩羅が一応の完成をみたのはざつと、江戸時代の後期、天下泰平と同時に、流通や経済に近代に繋がる変化…殺風景な云ひ方をすれば、コメからカネへの…が形になつた時期と重なる。当時の欧州が戰争と植民地の経営に忙しかつたのと較べれば(云つては何だが、イギリスの料理はここで一ぺん、大打撃を蒙つてゐる)、随分と暢気、訂正優雅ではあるまいか。

 

 改めて念を押すと、天麩羅とフライに優劣を附ける積りは丸でありませんよ。日本人と西洋人の味覚の差異について語つてゐるわけでもなく、色々とちがつてゐるのを面白がつてゐるだけに過ぎない。とは云へ最後に矢張り不思議と思ふのは、小麦に食卓の多くを任せ、また様々の応用を効かした國が何故、ディープ・フライに辿り着かなかつた…いや辿り着くまでに異様な時間を要したのか。さくりさくりとざくざくざくといふ擬音のちがひに潜む謎は大きい。