閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

680 何とはなしの麻婆豆腐

 美味しいとは思ふのだが、何とはなし、食べる機会を持てない食べもののひとつに、麻婆豆腐がある。

 豆腐と挽き肉を炒め煮て、唐辛子と花椒、豆板醤などで味を調へた四川の料理。我が國での受容は、陳建民が日本風に味附けを工夫してからで、ざつと半世紀ほど前。尤も四川で誕生したのも十九世紀末頃といふから、誕生以來百年余。麻婆豆腐は随分と新しい料理と云つていい。

 麻婆豆腐の"麻"は"痘痕"の意。詰り"麻婆豆腐"は"痘痕小母さんの豆腐(料理)"なのです。とはよく云はれることで、間違ひではない。麻婆豆腐を考案した四川の陳劉氏には痘痕があつたさうだから。但し"麻"にはもうひとつ、"花椒の痺れるやうな味はひ"の意もあるらしく、どつちかが正しいのではなく、ダブル・ミーニングなのでせうな、きつと。

 伝説だと四川の陳劉氏は豆腐屋と羊肉屋に挟まれた長屋住ひで、両隣から仕入れた豆腐と羊肉を使つたのが、麻婆豆腐(の原型)だといふ。本当か知ら。かういふ創始説話は、お腹の底で疑念を感じても、成る程さうだつたのかと膝を叩くのが礼儀だから、煩くは云はないけれども。

 熱くて辛くてひりりとして、とろりとしたのが本來の麻婆豆腐である。ざつとしか確めたところ、四川の冬は東京に較べて寒冷だから、食べもので体を内から温める必要があつたのだらう。唐辛子や花椒、豆板醤はその為にたつぷり用ゐられ、それぢやあ気候の異なる日本では受け容れられないと陳建民が判断したのは、まことに優れた判断だつた。貴女やわたしの舌に馴染んだ麻婆豆腐の味は、遡ると陳さんの工夫に辿り着く。

 その陳建民がどんな工夫を凝らしたかと云へば、普通は日本人の好みにあはせ、麻辣…山椒系と唐辛子系の辛みを控へさした、と纏められる。簡潔で正しい。併しそれだけか知らとも思ふ。料理人が來日してから、日本人向けの麻婆豆腐を披露するまでに、十余年の間がある。その間にかれは日本で四川の料理が受け容れられる方法を考へたらう。試行錯誤を繰返しながら、この土地の気候風土を知り、食生活を知り、きつと日本人の食卓には必ず白米…ごはんがあることに驚いただらう。

 これは根拠の無い想像なのだけれど、四川流麻婆豆腐をごはんのおかずに仕立て直したのが、"陳さんの麻婆豆腐"ではなかつたか。本人がさう考へたかどうかは知らない。はつきりと意識しなかつたとは思ふ。一方で現在、我われの身近にある即席製品は勿論、中華料理屋の定食も、"陳さんの麻婆豆腐"が基になつてゐて、最初から潜んでゐた"ごはんのおかずとしての麻婆豆腐"といふ種が花開いた結果ではなからうか。四川料理人の思惑や矜持は兎も角、陳さんは日本人の食卓の特徴を綺麗に掴んでゐた。

 併しここまで褒めると冒頭、美味しいとは思ひつつ、何とはなしに食べる機会を持てない食べものが麻婆豆腐と書いたのと矛盾するんではないか、と指摘されさうで、確かにその通りである。正直なところ、"ごはんのおかず"に麻婆豆腐が出ても、わたしは(多少)困惑する。上手に仕上げた麻婆豆腐がうまいのは勿論だが、ごはんに適ふかと訊かれれば、首を傾げてしまふ。中華料理でごはんにあはすなら、回鍋肉や青椒肉絲の方が喜ばしいからで、こちらの嗜好ゆゑなのは無論の話。麻婆豆腐の責ではないのは念を押しておく。

 何故だと考へるに、麻婆豆腐が相手だと匙が要る。ごはんはお箸で、いちいち持ちなほすのが面倒なのだらうか。ごはんを匙で掬ふのが禁止されてゐるわけではないけれど、さうするとごはんに紅い染みがつく。ごはんに乗せて食べるのがいいと主張されても、麻婆豆腐や回鍋肉や青椒肉絲のお皿にごはんを打掛けて平らげる方がうまい。實は肉野菜炒めでやるのが一ばん旨いが、踏み込むと話が大幅に逸れる。

 それで麻婆豆腐に戻ると幾ら日本向けに仕立て直しても、花椒唐辛子豆板醤のからさは、ごはん相手だと尖り過ぎてゐる。かと云つて更にごはん向けの穏やかな味附けにすれば、それはもう(麻婆豆腐ではなく)肉豆腐で、いや肉豆腐は肉豆腐だから旨いので麻婆豆腐の代用にしてはならんのです。

 だつたらごはん抜きで麻婆豆腐を食べればいいと進みさうだが、ことはさう単純だらうか。目の前に湯気を立ちあげた麻婆豆腐があつて、紹興酒があつて、それで完結するのかと考へると、どうも六づかしい気がする。先に何かふはりとした揚げものや何やらの塩漬けで麦酒を呑み、後で杏仁豆腐で口を穏やかにしたくなる。落ち着かなくていけない。

 と話を進めた我われが、もしかすると原型と思はれる豆腐と羊肉の料理…麻婆豆腐と名附けられる前の…は、長屋の料理だつたといふから、小さなお椀ですつと食べてご馳走さんと立ち去る、云はば屋台のかけ蕎麦程度の食べものだつたかも知れない、と想像しても許される。簡便から始つた食べものが、豆腐や肉の吟味と調味の工夫、時代時代の人びとの舌で洗練され、完成に到つたと見立てる方が自然だし、食慾…喰ひ意地の点からも同じであり、また文明の面から見ても寧ろ当り前である。

 もうひとつ。併しお椀や小さな器に少し盛つたくらゐが、實は麻婆豆腐に似合ひの分量ではないかとも思ふ。中華料理の洗練と完成はおほむね、豪奢と絢爛に近い。それはそれで惡いと思ひはしないが、虚弱な消化器しか持合せない身には時にうんざり感じるのも(残念ながら)、また事實であつて、その鬩ぎ合ひがどうやらわたしを、麻婆豆腐から遠ざける理由らしい。裏を返せば小鉢のやうなあしらひなら、距離はぐつと縮まるとも思へて、さうさう、その時は饅頭(具の無いやつ)を添へてほしい。刺戟を抑へられるし、最後まで綺麗に掬ひ取れる。