閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

681 誕生日について

 生きてゐる以上、年に一ぺん、必ず訪れるのが誕生日である。閏年の如月晦日生れが、どんな扱ひになるのかは知らない。如月念八日なのか、それとも彌生朔日か。そもそも戸籍の上で、二月廿九日生になつてゐるひとつて、どれくらゐの数なのか知ら。

 かういふ話を突き詰めてゆくと、暦法の方向が気になるのは人情だが、暦法史の複雑さはわたしの手に余るから、そつちには踏み込まない。月齢の変化を基に、潮の満ち干きやら植生の変化やら、諸々の條件を取り纏め、整理し、体系附けたのだと思へて、詰り古代人の中には大した知恵者がゐた。

 なに必要に迫られて仕方なくねと古代の知恵者は謙遜するだらうか。その辺の事情は確かにあつたとしても、腰を低くすることはない。暦…季節を讀むのは生活のみならず、下手をすると生き死にに直結する大事だつた。古代のエジプトが文明史のおそらく初めの時期から暦を持つてゐたのは、ナイル川が定期的に大氾濫を起したからで、肥沃な土地が生れた分を差引きしても、予測はしたいし、その予測は一過性でない方が望ましい。暦を求める理由としては十分だし、作るには長い経験値と、それらを整理する能力が欠かせないことを思へば、堂々と胸を張つて下さいと云ひたくなる。

 えーと、さう、誕生日の話。自分が一年のどこで生れたかといふのは、暦が出來て一年の概念が明確になつてから、少しづつ形作られたのだと思ふ。古代まで遡れば、まづは生き延びるのが先で、いつ生れたかなど、どうでもよかつたにちがひない。やや露惡的に云へば、社会が成立して、支配層が税や兵役を課せる程度に發達してから、その辺が重要視されてきたと思へて、厭ですね、腥い感じがする。

 さうなると"誕生日をお祝ひする"習慣が出來たのは、いつ頃からだらうと思ふ。調べてゐないし、調べてもはつきりしない筈だが、想像も六づかしい。

 キリスト教の範囲なら、イエスさまの誕生だか復活だかを祝つたのを、自分にも引寄せたのかと想像したくなる。いやこれはただの想像ですよ。ローマ辺りの伊達男なら、ナザレの大工の倅の弟子が大集団を作る前から、愛らしい女性へ贈りものを捧げ、きみの誕生日だからねと囁くくらゐ、平気だつたらう。これもまた想像だけれども。

 古代のインドを含めると話はややこしくなる。かれらの時間…歴史は直線的ではなかつた。生れ変り死に変りを永劫に繰返すのが古來のインド時間で(だから某國の王子がそれを厭ひ、抜け出したいと願つた挙げ句、佛教の原型に辿り着いたのだが)、その輪廻にどつぷり浸つた人びとが、誕生日を祝はうと考へるだらうか。どうせまた生れ変るんだし、祝つたつて何にもなるまいさと、諦観的な態度を取つたと想像する方が自然に思ふ。

 

 そこで昭和後期に生れた、ごく当り前…詰り米國や西欧の暦法と風習がある生活を送つた男(わたしのことだ)の話になるのと、暦の中に自分の誕生日があるのは嬉しい。何があるわけでもないけれど、さういふ小さな樂みが、人生を惡くないと少しは思はせてくれる。池波正太郎が、一日の烈しい労働の後に味はふお味噌汁を、旨いと感じるのが生きてゆく悦びになるとあつたのを思ひ出す。あのひとの随筆は時に粋人の厭みが見え隠れして、うんざりするのだが、お味噌汁のくだりは納得がゆく。さういふことを考へたのは、けふが誕生日だからで、わたしが古代のインドに生きてゐたら、時間からも暦からも離れ、気にも留めなかつたにちがひない。