閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

699 拡散するごはん

 我われが"ごはん"と云ふ時、そこには幾つかの意味が隠れてゐる。先づ白米を炊いたの。一ばん狭い(もしくは厳密な)意味での"ごはん"と云つていい。そこにお味噌汁や焼魚、お漬物も含めた、伝統的な食事…ご膳を"ごはん"と呼ぶ場合もある。もつと広く、白米の有無を横に置いた食事全般…ステイクとソップとパン…を"ごはん"と称することもある。

 ヨーロッパ辺にかういふ単語はあるのか知ら。たとへばブレッドはブレッド、ビーフビーフの筈で、それが食事そのものを示すまで拡がる例は無ささうな気がする。大体かれらは、狭義の"ごはん"に相当する"主食"の概念を持つてゐるのかどうか、疑はしい。

 何で目にしたか忘れたから、そこは差引きしてもらふとして、米は小麦に較べ、同じ面積での収穫で、喰へる人数がはつきり多いさうだ。といふことは、ヨーロッパ人が小麦に執着し、馬鈴薯に頼つたのは、その土地で穫れる割りのいい作物がそれらだつたのだと想像出來る。その小麦なり馬鈴薯なりを、何とか工夫して食べなくてはならない。良し惡しとは別の話であつて、その條件がかれらの豊かな調理技術の基になつてゐる。

 もうひとつ、米の栽培は面倒でも、穫つてしまへば相応に保存がきくし、後は烹るだけで十分にうまいことも挙げておかうか。外に塩漬けの魚や野菜があれば、文句の無い食事が出來上る。調理の工夫が求められる小麦や馬鈴薯はえらいちがひである。何千年前に遡るのか、我われの遠いご先祖は狂喜したらうな。強烈な原体験だつたにちがひない。

 司馬遼太郎が云ふところを信じれば(わたしはかなり説得された)、上代古代の政権が北上を續けたのは

 「米の穫れる地域を拡げる」

為だつたといふ。夷と呼んだ狩猟民集団を土地に縛りつけ、或は別の土地に移して米を作らせる。實に解り易い。そこまで拘泥しなくてもと思はなくはないが、それは現代人の感想で、かれらの目に、安定して喰へる(期待が持てる…詰り何人がどの程度喰へるか目算の附く)作物は、素晴しく魅力的に映つただらう。ここで口を滑らすと、宗教といふ抽象的形而上的な概念を押し出すよりは…その頃の日本にそんなものは未だ無かつたけれど…、余程にましだつたとも思ふ。

 要するに日本史の最初の最初に近いところから、米…それは"ごはん"だつた可能性が高い…は既にあつた。あつたと云ふより、近畿圏以西(の本州)と九州では、生活と社会制度の基幹、根幹を成してゐたと思へる。それは目に入る範囲でも千五百年より前に遡れる筈で、ひとつの作物を、これだけ長期間、似た調理法で、食べ續けた例が外にあるだらうか。さう考へたら、米…白米…"ごはん"に、複数の意味が重ならない方が寧ろ、不思議であらう。

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 と、ここまで書いて、冒頭に挙げた例だけでなく、お粥や雑炊も、或はお赤飯、ばら寿司も"ごはん"に含めていいと気が附いた。そんならおにぎりもまた"ごはん"で、考へを進めるほど、"ごはん"の意味はどこまでも拡散を續けることになる。ヨーロッパ人には想像が六づかしからうな。