閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

700 昭島どんたく

 

 

序~当然の如く

 東京都の西側、旧國で云ふと武藏國多摩郡に昭島といふ市がある。周りには八王子立川福生日野の各市があつて、そこに較べれば、市民と市長には申し訳ないが、地味ですな。ただ地名と昭島驛の名前は、以前から知つてゐた。先に行けば羽村青梅沢井の各驛があるからで、詰り通り過ぎる場所だつた。そこへ足を運ぶことになつたので、事情を書く。

 いやその前に"どんたく"について少し触れておきたい。和蘭語のzontagに起源がある。休日乃至日曜日、要は休息日の意。わたしが属するニューナンブ…カメラと冩眞とお酒を偏愛する不逞の輩たち…では、転じて酒席を指し、特に泊りが加はる場合を"スーパーどんたく"と称する。その"スーパーどんたく"が昭島に行く目的であつた。

 

壹~先づは背景

 東横インといふビジネス・ホテルがある。何と云ふこともない、チェーンのホテル。どんな経営なのかよく知らないのだが、ぽつりぽつりと新規開業を重ねてゐるから、それなりに順調なのだと思ふ。

 そのぽつりぽつりがニューナンブにとつて(時に)重要になる。新規開業に際して、シングル・ルームが三千九百五十円で泊れる"サンキュー・ゴメンネ"キャンペーンを實施するからで、"新しいスタッフが運営に不馴れだらうから、その分を値引きします"と名目が附けてある。冷静になつたら、スタッフ全員が新規採用でもあるまいし、ノウ・ハウだつてあるのだから、スムースかどうかは措いても、酷い運用になるとは思へない。仮にさうだとしても、ビジネス・ホテルに求めるのは、滞りのないチェック・イン、チェック・アウトと清潔な部屋くらゐなもので、こちらに影響は及ぶまい。なのでキャンペーンは、新しく営業を始めますよといふお知らせと宣伝以上にはならない。勿論廉に泊れるなら有難い。そこに目を附けたのがニューナンブの頴娃君で、貴君泊り行かうぢやあないかと云つてきた。

 ここでニューナンブの事情について、筆を滑らすと、令和二年から三年に掛けての感染症の流行が、我われの行動に大きく影響したのは云ふまでもない。酒席を共にし、或は藏開きに足を運ぶなど無理な相談であつた。それでZoomだとかGoogle Meetだとか、オンラインを試行している。ただわたしは、その方向がどうも気に入らない。心理的な事情と物理的な環境の双方に事情があるとだけ云つておく。そこに頴娃君の誘惑、訂正提案があつたので、非常に心が動かされた。と書くのは些か正確さを欠いて、その前に別件で似た計劃があつた。神無月に立川での實施を目論んだけれど、どうしても感染症流行…といふより再拡大…の不安が拭ひきれず、見送つた経緯がある。見送りを決めたのは間違つてゐなかつたとは思ひつつ、無念が残つたのもまた事實であつて、わたしが大きに心動かされたのは、詰りさういふ伏線のやうな背景があつた。よし頴娃君、泊りに行くとしませう。

 

弐~打合せのこと

 ところでニューナンブは伝統的に打合せを重視する。打合せを名目に呑むのだらうと推測した我が親愛なる讀者諸嬢諸氏は、まことに正しい。呑んでゐると、莫迦ばかしい話だけでなく、素面では浮ばなかつた思ひつきが飛び出ることもあるので、中々具合がいいのです。その思ひつきが使へるかどうかは勿論、別の話としても。併し残念ながら今回は膝をつきあはして打合せるわけにはゆかず、メールでのやり取りになつた。主な課題はふたつ。

 第一に当日の合流と動線をどうするか。

 第二にホテルでの酒席はどう進めるか。

 先づ第一の点から考へると、昭島驛は青梅線である。沢井驛まで足を延ばせば小澤酒造があり、一驛だけ動いた拝島驛からは石川酒造に行ける。三驛進んだ福生驛には大多摩ハムもある。いづれも誘惑の度合ひが高い。ただこれらには青梅線の本数の少さで時間が掛かるといふ難点がある。宜しくない。昭島に泊ると決めた段階で合意に達したのは、篭つて呑むといふ一点で、沢井福生拝島各驛は(残念なことに)その合意から少々外れて仕舞ふ。但し立川には髙島屋と伊勢丹がある。どちらの食糧品賣場、デパ地下と呼ぶほか、そこでは多摩の産品を扱つてゐるのが判つた。時節柄の限定品だつてあるかも知れない。なので頴娃君、立川で合流するのは如何か知らと云つたら、ちよいと贅沢な肴も買へるよねと賛意を示してもらへた。流石深讀みの頴娃君である。

 とは云ふものの、その"ちよいと贅沢な肴"は第二の点の問題にも繋がる。従來のスーパーどんたくでは、わたしの部屋に頴娃君を招いて(これはわたしが喫煙者といふ事情)、乾盃をして、肴を摘むのが通例である。併し今回もそれで押し通せるのかどうか。換気を十分に取つて、お膳の置き方と距離の作り方を工夫すれば、直呑みでもどうにかなりさうだが、そこは用心を優先して遠隔…オンラインに舵を切るのが安全だとも思へる。悩ましいのは、それで肴の撰び方が異なつてくるからで、たとへば頴娃君好みのお刺身の盛合せを、ひとりで呑む部屋には置けない。それにどの銘柄のお酒(これをニューナンブでは"漢の一本"と呼ぶ)を撰ぶかも丸でちがつてくる。この点は打合せても合意には到らず、ひとまづは直呑みを見据ゑつつ、事前の準備が整はなければ、オンラインにしませうと、詰り玉虫色に留つた。

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参~如何なる次第の当日か

 合流は午后一時頃に立川驛。相応に余裕を持つて動けるのは有難い…と考へてゐたのに、六時には目が覚めた。普段なら眠くつて堪らないのに、かういふ時はすつきり起き出せるのは、我ながら不思議に思ふ。珈琲を喫してゐた八時五十七分、地震があつたから驚いた。あはてて確めると、震源は廿三区、震度は三。先に動いてゐる頴娃君に連絡を取つたら、気附きもしなかつたさうで拍子抜けした。

 中央線快速豊田行きに乗車。そろそろ立川といふ辺で頴娃君から、お腹が空いて我慢ならないから、お蕎麦屋に並んでゐると報せがあつた。お晝をどうするか考へてゐたところだから、便乗することにした。伊勢丹の八階にある[更科堀井]で合流。蕎麦屋でお晝のニューナンブ・スタイル。かうなると呑まないわけにもゆかず、一合の"名倉山"を常温で。摘みにはおでん。蕎麦は後で頼むことにした。頴娃君は茸の天麩羅だかを摘みに冷酒を都合二はい。おでんは大根と玉子、厚揚げ、蒟蒻、麸に青ものが少し。穏やかな仕立てで中々宜しい。顔を附きあはすのが久しぶりだから、その分味が佳く感じられた可能性はあつて、だとすればそれは喜ばしい。蕎麦は散々迷つた挙げ句、もりを一枚。玉子とぢ、月見、鴨蒸篭に鳥蒸篭なぞにも惹かれたが、久方ぶりでもあるし、基本を大切にしなくてはなるまい。ざつと二千四百円。伊勢丹の地下に降りてちよつと摘みを買ひ、立川驛から昭島驛まで動いた。驛のすぐ近くにモリタウンだつたか、大きな商業施設がある。"漢の一本"を買つて、"サンキュー・ゴメンネ"の東横インに入つた。

 ワイド・デスクとかそんな名前の部屋は、テイブルに余裕がある。そのテイブルで半日我慢をした煙草を一本。我慢の分も含めて實にうまい。午后五時前に頴娃君、S鰰氏の三人でZoomを始めた。もうひとりのクロスロード・G君は都合がつかなかつた。オンライン式のミーティングといふか酒席は初めてで、自分の顔が画面に映ると禿が目立つから腹立たしくなつた。性に合はんなあと思つたが、まあひとつの撰択肢ではある。"漢の一本"に撰んだ佐賀の"鍋島"が好もしい穏やかな味はひだつたので嬉しくなつた。Zoomは三人以上だと四十分で切れる。大相撲九州場所をB.G.M.に二セットでお開きにして、オリックス・バファローズ東京ヤクルト・スワローズの日本シリーズ初戰に移つた。途中で頴娃君から、シャトー・メルシャンの"勝沼メルロー"を少し頒けてもらつた。メルシャンが勝沼メルローを栽培してゐたのは知らなかつた。記憶にある限り、あすこの赤は塩尻や毬子が殆どの筈である。呑むと留袖姿の女性のやうな落ち着きがあつて、和洋中のどれでも適ひさうな感じがされた。

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余~その後の話

 "勝沼メルロー"を呑んでからの記憶は曖昧である。頴娃君も同じであつたらしい。翌朝のテイブルが存外、散らかつてゐなかつたから、礼儀正しくおやすみを云つたのだと思ふ。前夜のお酒の残り具合も酷くなく、要は惡さするほど、体力の余裕が無かつたのだらう。置いてあつた麦酒を呑み、散らし寿司をつまんだ。本來なら助六寿司にするのだが(これなら手で摘めて具合がいい)、伊勢丹モリタウンで賣つてゐたのは、朝めしにはちつと多くて見送つたのだつた。

 もうひとつ。従來のスーパーどんたくなら、チェック・アウト後、好ましい展示があれば八王子の夢美術館に行き、帰途に[和来]で一ぱい引つかける(摘みが中々宜しく、客あしらひも巧い)ところを、今回は見送らざるを得なかつた。まことに残念であつたが、今の時期にそこまで求めるのは幾ら何でも無理があるし、わたしにもそのくらゐの分別はある。時節柄さういふ不完全さはあつたものの、昭島どんたくは満足に値する一泊であつた。残る課題は、次をいつ、どんな形にするかといふ点で、これには議論の余地がたつぷりある。その課題や議論も、スーパーどんたくの樂みだと云つていい。