閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

708 饗宴(贋)

 吉田健一の『酒肴酒』といふ随筆集(光文社文庫に入つてゐる)に、「饗宴」と題されたやや長めの一篇がある。胃病で飲食に不自由した時に想像する、"もの凄いご馳走の夢"に就ての一文で、實際と経験と妄想が入り交つた、随筆なのか何なのか、兎に角讀んでゐる内、こちらの腹も膨れてくる気がするから(或は烈しく空腹を感じるから)、きつと佳い文章なのだらう。尤もこの場合の"佳い"は、"甚だしい迷惑"と殆ど同じ意味である。

 胃を患つた吉田の知人曰く、飲食に制限が掛つたら、頭に浮ぶのは食べること計りになるといふ。そこで吉田の空想も食べることにぐつと傾いてゐて、かういふのも説得力なのかどうか、無秩序で絢爛豪華な献立の中に、お酒も麦酒も葡萄酒も出ないのが不自然に思はない。勿論それは空想だから成り立つので、ご馳走のお皿が目の前に並べ立てられた時に、あの批評家が一ぱいを嗜まないとは考へられないのだが。

 併し入院中、酒精を求めないのは解る。卅余年前、三ヶ月ほど入院したことがあつて(胃病ではなかつたけれど)、病院で出された三食に、罐麦酒の一本も附かないのを不満には思はなかつた。寧ろ栄養だのカロリーだのを考慮しない、医學的には不健康な食べものを恋しがつた記憶がある。その頃に吉田の一文を讀んでゐたら、どんな気分になつたらう。具体的な空想を働かせるほどの経験が無かつたから、却つて苛立ちが募つたかも知れない。

 では卅年余りが過ぎた令和三年ならどうか。幸ひ胃腸は健全らしく、飲食に不自由はしてゐないから、呑まないで食べ續けるのを空想するのは六づかしい。一方で卅年前に較べれば、胃袋は縮んだと思しく、食べられる量がぐんと減つてもゐるのは残念である。なので胃袋の大きさ、それから財布の都合を考へずに食べるとしたら、と空想を働かせてみたい。空想と云つても、ただの架空では面白みに欠けるから、その辺は現實に則しつつ、誤魔化しも入れつつ、進めますよ。

 

 そこで先づ大久保に行く。百人町の交叉点から大久保驛の間には呑み屋が何軒か並んでゐるが、最初は[長寿庵]で天玉蕎麦を啜る。何と云ふこともない、立ち喰ひに椅子を置いた程度の蕎麦屋だが、店で揚げてゐるか掻き揚げ…いつだつたか、天麩羅蕎麦を平らげた女性が、残つたつゆにその掻き揚げだけを追加してもらふのを見たことがある…がうまい。腹にしつかり収め、さあこれから呑み喰ひを愉むぞ、と気合ひを入れるのに好適である。

 いきなり重い酒精を入れるのは好もしくないので、天玉蕎麦を平らげたら、[かぶら屋]に入る。深々とした論評を必要としないありふれたチェーンの安呑み屋。以前は純然とした立ち呑み形式で、愛想と客あしらひの巧いお姐さんが店長として、どうも特権的に好き勝手を…詰り摘みに工夫を凝らしてゐた。改装とあはせてお姐さんは異動したのか、姿を見なくなり、メニュもチェーン共通に纏められたが、現在の店長もあしらひがいい。酎ハイや抹茶ハイを呑んで、串ものを何本か(ハラミにネギマ、玉葱のフライ)、コロッケやミンチカツも食べておかうか。

 或は[ぽかぽこ]にするのもいい。立ち呑み。愛想がいいのか惡いのか、小父さんがひとりで切盛りしてゐる。壜麦酒にサッポロの赤ラベルを用意してゐるところに、判つてゐるなといふ感じがする。その赤ラベルを呑みながら、矢張り串もの。でなければ、厚揚げを焼いてもらふのも宜しからう。そこから中央緩行線に乗つて二驛行けば中野驛だからそこで降りる。帰りも中野驛から電車に乗らねばならない。ひとまづは驛に近い喫煙所で一服を点け、早稲田通りの方へ歩く。早稲田通りを渡ると新井藥師の商店街だが、そつちはよく知らない。渡らず中野驛の方を向くと、昭和新道通りが見える。

 

 かう書いてから、いきなり中野に行つてもいいと思つた。驛前にある名前を知らない立ち喰ひ蕎麦屋で、田舎蕎麦を啜るのも惡くはない。確かすりおろした生姜をちよつぴり入れるのを薦めてゐて、それが野暮つたい蕎麦に似合つてゐた。偶に家で食べるカップ入りの即席蕎麦にも応用が効く。蕎麦屋なら他にも[富士そば]や[梅もと]もある…残念ながら、この稿のやうな空想には、ちつとあはない。蕎麦に拘泥する必要はなくて、呑み喰ひを樂む準備運動になるかるい食事なら、好きに撰べるのは有難い。それで昭和新道通りに戻ると、ここは大久保驛前より色々の呑み屋がある。

 

 店の名前は忘れた(ジャックとかジョニーとか、そんな感じだつた)が、そこに潜り込んで、ホッピーにする。ホッピーも莫迦には出來ないもので、店によつて味が異なる。使つてゐる焼酎のちがひらしい。数寄者に云はせると、キンミヤ焼酎が本道といふ。尤もホッピーの會社によると、ジョッキを凍らせ、焼酎もホッピーも十分に冷し、氷は入れないのが推薦の呑み方で、焼酎の銘柄には触れてゐない。推薦の呑み方は試したことはない。摘むのは鶏の唐揚げ、焼き厚揚げ、ポテト・サラド、それからもつ煮。前二者は時間が掛かるだらうから、後二者で繋がうといふ魂胆である。余りにも基本的過ぎて詰らないと云はれても、こちらは変り種を求めてゐるわけではない。

 そこから[ぱにぱに]まで歩く。歩くといつたところで、三分もかからない。ここは立ち呑み屋で摘みがうまい。焼き餃子、素揚げの茄子に葱だかで仕立てたソースをかけたの、鶏の天麩羅、ポーク玉子。金魚といふ酎ハイの一種(大葉と唐辛子が入れてある)を二杯か三杯。摘みは全体的に中華風の味つけだから、お酒をあはすのは少々六づかしい。小さく切つたチーズに削り節をあはせ、何やらドレッシングをかけたのや、薄く切つた苦瓜を酢のもののやうに仕立てたので、濁り酒(五郎八だつたか)を呑む手はあるにしても、金魚から濁り酒へ、なだらかに移れるとは思ひにくい。それにお酒の方は別に目処がある。目処といふのは、お酒に適ふ肴があるのを意味してゐて、そこにゆく前にまた少し歩く。

 この場合の少しは文字通りの意味で、この狭さが昭和新道通りのいいところである。目立たないところに、ここは店名を伏せるが、實にうまい店がある。黑糖の焼酎に泡盛。その前につき出しを摘みにオリオン・ビールとする。[ぱにぱに]もさうだが、ちよいと手を掛けたつき出しを用意する店は、それで信用したくなる。都立家政驛の近くにある[かっぱ屋]といふ呑み屋のつき出しもいい。詰り摘みが旨いので、あすこの水餃子と浅蜊の酒蒸しと色々の焼き魚、どうかすると出てくるカレー・ライスに無沙汰なのは残念でならない。

 

 ただわたしは空想の中で中野にゐる。空想だから一ぺん都立家政まで飛んでもいいのだが、それが許されるなら、ゴールデン街のお酒を揃へた小汚ない呑み屋(今もあるのか知ら)だの、天満の[てぃだ]、梅田の[ケラー]、中崎町や京橋(大坂の方である)の名前を忘れた立ち呑み屋にも行けることになつて、収拾がつかなくなる。都立家政なら新井藥師の商店街を抜け、西武新宿線に乗れば、行けなくはないとして、そんならゴールデン街だらうが梅田や天満だらうが、行けなくはないことになる。収拾をつける前に切りが無い。空想に求められるのは、奔放ではなく節度なのだと、我われは理解する必要がある。

 

 中野の某店に戻る。オリオンとつき出しをやつつけた筈だから、安心してちやんぷるーを註文する。苦瓜か素麺か、出來るなら半々で出してほしい。玉子焼きも食べる。黑糖焼酎か泡盛を水割りで。その後に何といふ名前だつたか、辛くちのソーダでヰスキィを割つてもらふ。折角の蒸溜酒を割るのは勿体無いと思ふひともゐるだらうが、わたしの舌は粗雑に出來てゐる。寧ろ少し割つてもらふ方が、旨いと思ふし、味のちがひも解る。ちやんぷるーやポーク玉子だけでなく、何とか豆も食べる。落花生だかを黑糖でまぶしてゐてあまい。但しその甘さが派手ではないから、黑糖焼酎や泡盛に適ふ。この店にはどうかするとルリカケスラム酒が置いてあるから、幸運に恵まれれば、あはしてみたい。

 串焼きだの唐揚げだの餃子だのちやんぷるーだのを食べてきた。そこで目処をつけてゐた店に行く、いやその前にもちつと、食べておきたい。そこで臺灣料理で呑める店に入る。臺灣麦酒、紹興酒。トマトと玉子の炒めもの、家常豆腐、拉麺。食べたことのない料理が色々あるので、試してもいい。ここは一品がたつぷりしてゐるから、半量づつで幾つかを平らげたら、十分に満腹を感じるだらう。改めて目処をつけてゐた店に足を向ける。摘みが旨いのは云ふまでもない立ち呑み屋。満腹で大丈夫かと思ふひともゐる筈だが、ここ(と名前は伏せる)の肴は、呑み助向き…詰りお漬物や烏賊を焚いたの、蓮の金平、油揚げと青菜を煮たのが、小皿で盆栽のやうに出る。かういふのを眺めつ、鳳凰美田だの鍋島だのを冷やでやつつけるのは、嬉しいことである。眺めるだけでは詰らないのは勿論だから、摘みもする。

 他にも摘みに拘泥しなければ呑める場所は幾つかあつて、お酒や焼酎、葡萄酒、ヰスキィを樂めるけれど…摘みの類がまづいわけではないから念の為…、この稿は尊敬する吉田の眞似なのでそつちは触れない。おほむねの順番は考慮してあるが、實は触れなかつた店を挟む方が、様々醉へる…醉ひ直せるし、"饗宴"の字にも似合ふ。一方で吉田は、醉ひ心地の一貫性を重んじた。あのひとが毎年の金沢行の急行列車にシェリーとお酒を持ち込んだのは、同じやうな醉ひが續くからださうで、本当だらうか。であれば、最初に葡萄酒を呑ませるバーでシェリーを二杯くらゐやつつけ、それからはお酒に任す方向もあるのかと思へてくるけれど、今から改めて考へるのは面倒である。まあそつちは今晩にでも、呑みながら考へてみませう。