閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

712 令和三年を〆る筈だつた話

 知りあつたのが中學生二年生の頃だから、もう四十年になると気が附いて、少々驚いた。知人のエヌのことである。中學校を卒業してから、異なる進路を進み續け、わたしは東京に棲息し、あちらは加西に長く単身で赴任してゐる。それでも現在に到るまで年に一度は会ふ機会を作るから、もしかするとエヌは巷間でいふ親友に属してゐるのか知ら。今さら認めるのも何となく、口惜しい気がされる。かういふことは死ぬ間際にでも改めて考へるとして、師走の卅日に会はうとなつた。何をするわけでなく、どこを歩くのかは、その日にならなければ判らない。天候だの気温だの風の吹き具合で、キタかミナミか天王寺、或は京都でなければ神戸をぶらぶら歩く。時々冩眞を撮る。どうかすると美術館に潜りこみも(今回の予定は卅日だから、流石に無理だらうが)する。

 前年は梅田から堂島を抜け、大川に沿ひつつ、半日掛けて天神橋まで歩いた。後でエヌが云ふには、二万歩ほどになつたらしい。確かに三日くらゐ脹ら脛が痛くて堪らなかつたから、二万歩が大袈裟だつたとしても、普段の何日か何十日か分を歩いたのは間違ひない。念を押すと歩くのを拒まうとは思はない。思ひはしないが、せめて一万歩以内に収まるくらゐでないと、同じ過ちを酷いかたちで繰返すことになる。経路といふか何と云ふかはさて措き、夕方になつたら麦酒に焼酎かヰスキィを呑みに行く。お酒…ここは日本酒の意…は呑まない。双方の好みを突きあはした結果であつて、確固たる信念のゆゑではない。仮に信念があるとしても、酒精の好みとの比較なら、後者を優先するのが、呑み助のあらほましい態度といふものであらう。記憶を辿れる限り、この十年でエヌとお酒を呑んだのは一ぺん、別のたれかに教はつた立ち呑みがえらく旨かつたから、再訪したくなつて、すまんが一軒、つき合つてくれと云つた時だつた。

 カメラは二台、GRデジタルⅡにパナソニックの広角を附けたオリンパスのマイクロ・フォーサーズを持ち帰つてある。両方を使ふ積りでゐるが、正直なところ使へるのかどうか、自信が無い。どちらかがもつと大きなフォーマット(ペンタックスハッセルブラッド)なら役割の分担が明快だから、併用に問題も不安も感じない。リコーとオリンパスの組合せは、どつちも小さくかるい。どんな風に使ひ分けるものか、見当を附けかねる。鞄の大きさに関はる(然も半日、過ちが繰返されれば一万歩超は歩く)から、慎重にならざるを得ない。それに呑めば醉ふ。醉つてカメラを失くしたり壊したりした経験は無いけれど、次も平気といふ保證にはならない。さう云へば卅数年前、タキシから降りる時、醉つてもゐないのに、膝に置いてあつたニコンを落として壊した(よりにもよつて足元には水溜りがあつた)のを思ひ出した。ストラップを掛けてゐる積りだつたからで、勿体無いことをした。今からでも買ひ直さうか知ら。

 そのニコンはFEと記憶してゐる。絞り優先式の自動露光が使へるやつ。ほぼ同じ形状のFMが機械制禦で、どちらもややこしい、凝つた眞似をしなかつた所為だらう、纏まりのよい機種であつた。一体にニコンは中級機以下のカメラ作りが下手つぴいな…伝統藝かと云ひたくなるくらゐの…會社なのだが、EMとこのFE/FMの系統は、数少い例外といつていい。買ひ直さうかと(不意に)思つたのは、電気系が駄目でなければ、一本の地味な単焦点レンズで十分に實用になるからで、いや併しフヰルムをどうするか(入手だけでなく、現像やプリントも)といふ点に目を向ければ、FEでもFMでも手すさびの玩具以上にはならないと見立てても間違ひにはならない。裏を返せば、そこに見合ふ程度と値段なら、手すさびの玩具として贖ふのも撰択肢に入る。

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 上まで書いたところで、エヌから聯絡が入つた。曰く、風邪ツ引きで熱が出たといふ。わたしより体調の管理が厳密な男にしては珍しい。望んだ發熱でもあるまいし、止む事を得ない仕儀である。御身御大事にと返すに留めた。

 ひとりで何処かに出掛けてもいいと思つた。北攝に豊中といふ小都市がある。幼稚園から小學六年生の途中までの七年か八年、住んだ町で、驛の近くにラーメン屋か中華料理屋だつたか、兎に角さういふ店があつて、今もあるのかどうか。少年期のわたしにとつて、外食とその店は殆ど同義だつた。だから店の名前は記憶に残つてゐない。家族で食べたのはラーメンと餃子と炒飯。それから五目そば。八宝菜も食べただらうか。十年余り…ひよつとしてもつと以前はあつた。その当時で半世紀近く、営業してゐますとの話だつたが、だとすれば大将だか女将さんだか、店を彼岸に移してゐるかも知れない。勿論代代りの可能性だつてある。確めたいと思つたけれど、外は寒いし、そもそも卅日に営業してゐるとは考へにくい。大人しくしておかうと決めた。大坂の家のめしは、旨いまづいとは別に、口に適ふ。