閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

717 小さな一品

 日本に伝はつたのは五世紀の終り頃といふが、信用は六づかしい。長葱の話である。我が國の記録で最もふるい時期に記された葱の文字は『日本書紀』に見られるさうで、成立した年代を考へれば、矢張り怪しい。併し公的に記録されたくらゐだから、ありふれた野菜でなかつたのは確實である。大陸では紀元前二世紀…前漢の時代ですな、既に栽培されてゐたらしい。さういふのが入つてきたものか。西への伝播は遅れに遅れ、十六世紀になつてからといふ。大活躍したのは同じ原産地域(中央アジアと云はれる)の玉葱の方で、東を目指した長葱と好対照と云つていい。

 ここからは長葱を単に葱と書きますよ。好物である。ぶつ切りで、薄切りで、刻んで。焼いて、煮て、炒めてうまい。獸肉にも魚介にも適ふ。塩と胡椒だけでよく、出汁でさつと炊くのもいいが、脂との相性もまた宜しいのが嬉しい。たとへば葱鮪鍋。あれは元々下賤と見なされてゐた鮪の脂を、味つけに使つたので、主役はあくまでも葱だつた。また葱抜きの焼き鳥なんて、まつたく淋しいにちがひない。池波正太郎は根深汁に鶏皮を浮したのを好んだといふから、あの小説家は葱と脂の組合せを熟知してゐたのだな。

f:id:blackzampa:20220118092134j:plain

 その葱で一ばん馴染み深いのは、わたしの場合だと串焼きである。塩でやつつけることが多い。焼酎に適ふ。尤も葱を焼くのは六づかしいらしい。旨いのとさうでないのと、案外なほどちがひがある。葱のどの辺を使ふか、鮮度や水気の具合、火の強さ、さういふのが纏まつて味に出る。葱焼きの出來次第で、その店の焼き方が好もしいものか、大掴みに掴めなくもない…と云つたら、厭みが過ぎるけれども。

 もうひとつのお馴染みは葱を炊いたの。大体は鶏肉だの大根だの厚揚げだのと共演するが、時に葱だけといふのもあつて、これが中々嬉しい。葱だけで成り立つ風に作つてあるからで、焼くのとは別の六づかしさがあるだらうと思ふ(ところでかういふ小さな一品は、たとへばフランス辺りにあるのか知ら。スペインならオリーヴ油を使つて、蛸や鰻とあはせさうな気もされる)上塩梅なのを摘むならお酒がいい。呑み喰ひをひととほり済ました後、ゆるゆる盃を重ねたい時に、これほど似合ひの肴も見当るまい。