閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

735 無頓着だつた

 先日のラヂオで、"けふのお便りテーマ"と題して、"何の海苔巻が好きですか"とやつてゐた。番組で云ふ"海苔巻"はどうやらお寿司の巻きものを指してゐるらしく、さう云へば巻きものの好ききらひに無頓着だつたなあと思つた。

 思ひ出すと、(比較的)馴染みがあるのは、助六寿司の干瓢巻きとかつぱ巻きだらうか。尤も干瓢巻きやかつぱ巻きを積極的に食べたくて、助六を食べた記憶は無い。太巻きを挙げてよささうでもあるがそちらも曖昧で、書きながら申し訳ない気分になつてきた。

 とは云へ。海苔巻の側にも原因の一端はある。おにぎりと云へば直ぐに、梅に昆布、おかか、鮭と(所謂)定番が浮ぶでせう。海苔巻だと今ひとつ、さういふのが出にくく、上の干瓢やかつぱ…胡瓜では、格がどうも追ひつかない。

 勿論ここで、鐵火巻きや葱とろ巻きは旨いぞといふ聲が出るのは当然だし、鰻と胡瓜の太巻きなんて恰好の肴だとも思ふ。併しそれが海苔巻の定番と思ひますかと訊かれたら、微苦笑で誤魔化したくなるのもまた、本心なんである。

 大急ぎで念を押すと、海苔巻がきらひなのではありませんよ。饂飩やにうめん(どちらであつても、やはらかい梅干しをひとつ、入れませう)の隣にあれば、ちよいと豪華なお午になるのも嬉しい。

 但し。但しである。梅干しと温泉卵を落し、青葱を散らした饂飩に似合ふ海苔巻はこれだ、と断定的に挙げるのは六づかしい。かつぱも干瓢も鐵火も旨く、かにかまとレタースをマヨネィーズで和へたサラダ巻きでも似合ふ。

 何故だらうか。

 我われのご先祖が(天然の)海苔をいつ頃から食べだしたかは、例によつて曖昧だが…各國の風土記から、遅くても奈良朝くらゐまで遡れる…、養殖は貞享から元禄(十七世紀末から十八世紀初頭)の辺りから、江戸で始つたらしい。将軍家へ安定して献上する目的があつたからといふ。

 ではごはん…この稿で云へば酢飯とあはせるのは、いつ頃に成り立つたか。半世紀ほど後の本で紹介されてゐるので、それ以前に、本に載せられる程度に普及してゐたと考へるのが妥当でせうね。

 少くとも江戸流の基本は干瓢だといふ。干瓢巻きを愛好したのは博奕打ちで、片手で摘めるのが受けたらしい。英國サンドウィッチ伯聯想されるなあ。

 尤も毎度毎度の干瓢巻きでは飽きがくる。それで当時は廉だつた鮪の赤身(漬けだらう)を巻いたのが登場する。鐵火場に集まる博徒に受けたのが、今で云ふ鐵火巻き。貧相…といふより、乱暴な感がある。但し上方以西は事情が異なり、所謂太巻きが主流であつた。現代でもその辺は似た傾向が残つてはゐまいか。

 上方式の太巻きは、玉子焼きだのそぼろだの椎茸だの何だのと、實に賑かなもので、ただ決つた種があるとは聞いたことがない。走りの魚介や野菜を用ゐた、妍を競ふ衣裳くらべのやうだつたのではと思はれるが(内田百閒が自慢した岡山の散らし寿司が思ひ浮んでくる)、實際は判らない。

 幼少期を大坂で過したわたしの場合、巻き寿司…海苔巻と云へば太巻きを指して、江戸流の細巻きは、かつぱとか鐵火とか、名前を個別に呼んだ記憶がある。地域の條件があるのは認めるとして、それは大坂の東京人でも東京の大坂人でも変るまい。詰るところ、"海苔巻"の示す範囲が、非常にあやふやなのだな。であれば、海苔巻と聞いて、どつちつかずの気分になるのも、止む事を得ない話であらう。

 ここまで書くと、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏から、"結局丸太は何の海苔巻が好き"なのですか、と訊かれるだらう。一応の目星は鐵火巻きと新香巻きである。そこの貴女、ありきたりとうんざりしないでください。貴女だつてきつと、そんな筈なのだ。

 それから矢張り太巻き。玉子焼きとでんぶと椎茸と胡瓜と干瓢。但し太つた玉子焼きは遠慮したい。穴子もいい。先に鰻を挙げたけれど、酢飯だつたら寧ろ、穴子の方が適ひさうに思ふ。鐵火新香と一緒に並んだお皿は壮観だらうな。

 併し大事なのは、お吸ひものなりにうめんなり、汁椀は欠かせないし、出來れば煮転がしくらゐは慾しい。ここら辺が早鮓とのちがひなのだが、ちがふ事情を考へるのはわたしの手に余る。おにぎりに近いと捉へるのはどうだらう。

 仮に海苔巻とおにぎりが近しいとすると、海苔巻だけを樂むには、片手間に摘めるお八つが望ましいとへられる。そこで我われは、干瓢巻きを摘んで博奕を打つた無頼の衆を聯想しなくてはならない。實はああいふのが、海苔巻に似合ひの場面なのだらうか。さう云へば座頭市の映画で、出入り前のやくざ者が頬張つたのが、おにぎりなのを思ひ出した。位置附けが似てゐなくもない。

 

 といふことを、ラヂオを聴きつつ考へたのだが、投稿しても没になつてゐただらうと思ふ。