閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

736 三輪の神さま

 正しい發音はにゆうめんで、字は煮麺(または入麺)を宛てる。うでた素麺に温かいつゆを張つた汁もので、大和國…奈良、もつと範囲を狭めると、現在の桜井市にあたる三輪が發祥といふ。判らなくもない。素麺が伝はつたのは奈良朝の頃らしく、その所以か、三輪は我が國素麺の源流地とも云はれてゐる。確かに三輪の素麺は現代でも名高いし、伝承が事實なら、冷たく〆るのも、温かく仕立てるのも、三輪生れと云はれて納得出來る。

 

 この稿ではにうめんと書きますよ。何故と訊かれても、それが好みだからで、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏よ、その辺りは寛容にお願ひします。

 少年期のわたしは体が弱く(信じてもらへないかも知れない)、何かといふと熱を出した。その病み上り、母親が出してくれたのが、にうめんと鰈の煮つけだつた。旨かつたかどうか、どちらも記憶に残つてゐない。"熱が落ち着いてきた印"のやうな食べものと理解してゐたのだと思ふ。ただそれが素麺に馴染む切つ掛けになつたのは間違ひない。今に到つても素麺は好物の一角を占めてゐるのが證拠である。尤も眞夏の冷や素麺に限られてゐたけれども。

 ゐたと過去形にしたのは理由があつて、詰りにうめんである。またしても母親が煮てくれたのが切つ掛けだから、我ながら何と云ふか、複雑な気分を感じなくもないが、それはにうめんの責任ではない。云つておくと、手の込んだ作り方なのでなく、薄味のつゆ(麺つゆでもかまひませんよ)で素麺を煮て、刻んだ青葱を加へる。煮上つたら丼に移し、温泉卵を割り入れるだけである。好み次第で梅干しを落し、或は天かすや生姜を入れてよく、鶏そぼろの壜詰でもあれば、温泉卵とあはせて親子にうめんにもなる。

 

 六づかしくも何ともない。

 こつらしいこつを敢て云へば、何を入れるにしても、ごつごつした口当りと、しつつこい味を避けるくらゐだらう。

 それだけで軽めの食事になり、ばら寿司なんぞ買つてあれば(助六でもおにぎりでもいいが)、ちよいと豪華なお晝ごはんにも変じもする。これは便利でいい、と気が附いたのはこの何年かのことで、我ながら實ににぶい。反省します。云ひ訳を許してもらへれば、にうめん、或はにうめんのある食卓は肴にならないでせう。素つ気なくなるのも、止む事を得ないと云ひたくな(りもす)る。裏を返すと、家に居て呑まない冬のお晝なら、にうめんは有力な撰択肢になる筈で…いやそれでも気附くのが遅いと云はれたら反論は出來ない。

 

 素麺を二把…揖保乃糸なので乾麺の状態で百廿グラム(大神神社の方向から咜られるか知ら)を湯がく。無精者のわたしだから、濃縮の麺つゆを丼に入れ、チューブの生姜を混ぜておく。素麺は茹で汁と一緒に入れ、冷凍の刻み葱を乗せ混ぜれば、案外とにうめんになる。手抜きも加減があると呆れられれば、そこはその通りと同意を示したい。貴女に振舞ふ機会を得られれば、もちつと手を掛けるとお約束します。

 尤も自分で啜る分には、それで大してまづくない。まづい麺つゆは商品として成り立たないもの、当り前とも云へる。それに素麺はそれ自体の味より、舌触りや喉越しを樂む比重が大きいもの…と書いたら、まあ丸太が啜るのだ、そのくらゐが妥当なのでせうな、と(皮肉混りに)呟かれるか。併し檀一雄が素麺の藥味を熱心に教へてくれた…晒し葱、胡麻、椎茸、鶏の挽き肉、茄子、炒り卵、大根おろし…事情はどうなるのだらう。檀は上を冷や素麺の藥味として挙げつつ、"煮ソバの薬味にもってこいだ"とも續けてゐるから、にうめんに応用さしたつてきつと旨い。と云へば色々と理窟が立ちさうな気がされる。

 

 変な方向に進みさうだ、元に戻しますね。

 家で自炊とも呼べない程度の食事…食べものを用意するにあたつては

 廉価な買物で済み

 手間が掛からず

 そこそこに食べられる味で

 その気になれば凝れもする

といふ四点が大切であらう。たとへば鯖の水煮罐と大豆の水煮は、あはせて炊くだけでもいいけれど、醤油だの葱だの生姜だの、或はトマトだの大蒜だの、ちよいと手を掛ければまた旨くなる。にうめんをかういふ食べものの一派に含めて、まさか異存は出まい。

 さう確信しつつ簡単な応用を考へれば、ソップだらうか。マーケットで賣つてゐる中華風掻き玉とか、ああいふ系統。たつぷりの韮を乗せたくなるなあ。洋風は六づかしさうだが、ホール・トマトと塩胡椒で鶏肉を煮る(単純なのに中々うまい)序でに、お椀一杯分をソップといふかつけ汁といふか、兎に角転用する手は考へられる。財布や時間との兼ね合ひはさて措き、たかがにうめんと侮れないのは間違ひない。残る気掛りは、こんな眞似をしたら、大神神社の神さまから咜られないかといふことなのだが、三輪の素麺を使つて、丁寧に仕立てたのを納めれば、赦してもらへさうに思はれる。