閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

738 お味噌汁の種

 白ごはんにお味噌汁で、食事は完成する。

 お漬ものと焼魚があれば、もつといいけれど、無くたつて食事は成り立つ。

 池波正太郎の"剣客商売"ものに、秋山大治郎が鼻をひくつかせ、麦飯に根深汁で食事をしたためる場面がある。若さに裏打たれた健康な食慾が感じられる旨さうな描冩だつた。ここに煮た鰯だの、芋の煮ころがしだのがあしらはれたら、台無しになつてゐただらう。池波の巧妙さである。

 と書いてから、他にお味噌汁を描いた(旨さうな)場面があつたらうかと気になつた。文學的な疑問は後にまはして、お味噌汁の話にしませう。

 

 農林水産省が教へてくれるところによると、味噌汁が出來たのは、鎌倉期に(おそらく南宋渡りの)禅坊主が持ち込んだ擂り鉢が切つ掛けだといふ。それまでの主流が大豆の粒が残る嘗め味噌だつたところを、擂り潰せるようになり、詰り汁ものへ転化が可能になつた。一汁一菜の確立でもある。

 因みに云ふ。味噌の原型が傳來したのは七世紀頃。

 鎌倉幕府の成立が十二世紀末頃だから、味噌汁の誕生まで實に六百年ほどの時間差がある。その間に味噌は贅沢な嗜好品から、武士たちの食事へと変化した。下層民の保存食としての普及は、もう少し後の室町期になつてからで、戰國の頃には足軽の糧食に使はれるまでになつた。

 粒味噌を擂り潰す技法を手に入れて四百年とか、その程度の時間でかうまで拡がつたのだから、擂り味噌は余程に便利な上、旨かつたのだらう。気持ちは解る。擂り鉢を持ち込んだ禅坊主には感謝しなくてはなるまい。もしかして、南宋の禅寺で口にした擂り味噌が、忘れ難かつたのか。

 

 味噌はうまい。お湯で溶くだけでも旨かつたらう。出汁を取つて種ものを煮たら、もつと旨くなるのは当然だが、さう思へるのは我われがお味噌汁を知つてゐるからで、初めて気が附いたひとは狂喜したにちがひない。

 色々と…野菜や魚介や茸類、鳥だけでなく獸肉も試したのは確實で、さういふ試行錯誤と取捨撰択の積み重ね(きつと手酷い失敗もやらかしたらう)が、現代のお味噌汁に繋がつてゐる。 我われは工夫を怠らなかつた遠いご先祖に感謝せねばならぬ。

 

 豆腐。

 長葱。

 油揚げ。

 若布。

 大根。

 馬鈴薯

 里芋。

 牛蒡。

 豚肉。

 鶏皮。

 

 主だつた種を挙げれば、この辺りになると思ふ。レタースやキヤベツに韮、胡瓜、浅蜊も挙げませうか。ひとつかふたつの種で品佳く仕立てるのが基本なのは、認めるのに吝かでないけれど、思ひつく種をあれこれどつさり入れた、お祭りのやうなお椀にも捨て難い魅力がある。

 さてそこで、わたしが好むお味噌汁はどんなのだといふ話をしたくなるのは人情といふもので、あはせ味噌を使つた、薄切りの玉葱と溶き卵を一ばんに挙げる。絹漉豆腐と細切りの油揚げと長葱の組合せや、千六本の大根も喜ばしく…いや喜ばしくはあつても矢張り、玉葱卵には及ばないか。その玉葱卵を第一に推す理由は、母親がよく作つてくれたからである。何のことはない。併し貴女だつてその辺りは、きつと同じだと思ひますよ。

 

 この場合の溶き卵は、黄身と白身が混ざりきらないくらゐがいい。出來上りの直前、お鍋に流し入れ、ひとまぜふたまぜの後、お椀によそふ。わたしは好まないが、七味唐辛子か粉山椒をほんの少し、振つても惡くはなからう。

 ごく軟らかな卵を摘みながらごはんを頬張り、ごはんを頬張つてお味噌汁に口をつける。味噌と卵と玉葱の異なる甘みに、白ごはんの甘さが重つて、實にうまい。卵は半分くらゐ残しておいて、最後にお味噌汁かけにするのがいい。卵かけごはんの汁もの版みたいな感じになるのも旨い。

 お子さま好みだねえと呆れられ、質実剛健の鎌倉武士を見習ひ玉へとも云はれるだらうことは、想定の範疇である。併し剛毅な鎌倉侍だつて、母堂か乳母か御台所かのお味噌汁を好まず喜びもしなかつた、とは思へない。あつちこつちでの血腥い戰の最中、舘に戻つたら母上に味噌吸物を作つてもらはう、と夢想しなかつたと云へるか知ら。

 

 お味噌汁はさういふ、子供めいた樂みを調味料にした食べものであつてほしい。玉葱卵のお味噌汁を炊きたての白ごはんと一緒に、鼻をひくつかせ、お行儀を忘れて食べることほど、嬉しい時間はないもの。