閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

742 好きな唄の話~Spain

 予め云つておくが、今回は反則である。

 題名を目にして、我がすすどい讀者諸嬢諸氏はきつと、すりやあチック・コリアだらう、唄ではないぢやあないか、と呟くにちがひない。

 

 確かにその通り。

 この稿で取上げるのはチック・コリアのトリオとボビー・マクファーリンが組んだ『Spain』で、だから最初に、今回は反則と云つたでせう。

 

 もうひとつ實は反則があつて、ボビーは決つた歌詞を唄つてゐるわけではない。スキャットと云ふのか、アド・リブと云ふのか知らないが、兎に角、ファルセットでメロディを唄ひ、口笛を吹き、マイクを自在に操つて…譬喩ではなく、聲が樂器になるなんて、思ひもしなかつた。

 

 ああいふのは、どうやつたら出來るのか知ら。

 たれでも簡単に出來るくらゐなら、あのピアニストと同じ場所に立てないのだから、不思議に感じるのは寧ろ、当然なのだけれど。

 それにボビーの聲は樂器と云つても、その音は確かに唄でもあつて、藝だなあと…これは讚辞として云ふのですよ…呟かざるを得ない。才能だと決めつけたいところだが、ことはきつと、さう単純に収まらないだらう。

 

 ややこしくは考へまい。世の中には分析を投げ出し、うつとり溺れるだけで満足する音樂…唄が稀にあるもので、チックとボビーの『Spain』は、その稀な實例に含めていい。