閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

745 壜麦酒の魅力

 明治九年だから令和四年から遡つて、ほぼ百五十年前。大政奉還から戊辰ノ戰を経て、やうやく成り立つた東京政権を相手に、神風聯、秋月、萩と亂(と云へば恰好いいが、有り体に云へば、旧い武士階級のただの暴發)が重なり、ひよつとしたら倒壊するといふ危機感(ひとによつては期待だつたらう)が、膨れあがつた頃である。その危機感乃至期待感は翌年、薩摩で爆發し…わたしは日本史上最初(で最後)の内戰と見る…潰えた。その薩摩は勿論、神風聯も秋月も萩も、反亂は西日本九州で起きた。徳川家康が死にあたつて、儂の軀を西に向けろと遺言したのは、この事態を予見してゐたと云つていい。一方で、徳川の政権は江戸以北に無関心…が云ひすぎなら、注意を払つた気配が感じられない。實際、東北から蝦夷地にかけての直轄領はごく僅かだつた。歴代の将軍とその幕僚は、北方を重く視てゐなかつた…少なくも政権に大きな影響を及ぼす地域と考へてはゐなかつたのだらう。云つては何だが、東京の政府が北に目を向けたのは、戊辰ノ戰の後、この國にはああいふ土地があつたのだと気づいたからではないか。この辺りの感覚はきつと、平城平安の殿上人と…王化せねばならぬ。とまでは考へなかつたにせよ…大して変らなかつたらう。でなければ、明治九年に(やつと冒頭に話が戻つた)札幌で動き出した建物を、"開拓使麦酒醸造所"と名附けなかつたにちがひない。大亂の気配とは無縁の、のんびりした話だと思へなくもないけれど。

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 日本の本格的な麦酒史は、その"開拓使麦酒醸造所"から幕を開ける。何がどう変遷したかは、麦酒會社各社が教へてくれるから、ここでは触れない。一世紀半の時間が麦酒を、我われに欠かせない呑みものにしたので、この稿ではその事實を歓び、麦酒會社に敬意を表したい。

 ところで呑み屋の麦酒は大半がジョッキで供せられる。喉が渇ききつた夕刻、三口くらゐで呑み干すのが随分な快感なのは、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏にもよく御存知と思ふ。ただ相手がゐる場合、余つ程、麦酒に餓ゑてゐたのか知らと呆れられる可能性がある。間違ひではないんだがなあ。

 尤も最近は、壜麦酒の方が嬉しい。一ぺんに干せる量が減つたのと、早く呑めなくなつたのが大きな理由。小さなグラスに注いでぐつと呑むのを、自分のペースで繰返すのがうまくなつてきた。年齢は色々な場面で顔を出すもので、それにあはせた呑み方を身につけるのは大切なんですよ。

 外の理由を探すと、ラベルを眺めて、おれは今これを呑んでゐると思へるのが宜しい。お酒や葡萄酒も同じで、図柄だの文字のあしらひだの色の用ゐ方だの、あれこれ論評するのは愉快でせう。詰りラベルは、摘みの一品と云つてよく、さういふ愉快には、歴史のある銘柄が好もしい。

 この頃の気に入りは、ご覧のとほり赤ラベル…正しい名称はサッポロ・ラガービール…出身は"開拓使麦酒醸造所"まで遡れるから、我が國の麦酒では最も古い銘柄である。發賣は醸造所開設の翌年…詰り薩摩の木強モンが西郷さんを担ぎ上げ、西南ノ役を引き起した明治十年である。よくもまあ、國家危急ノ折怪シカラヌ、と云はれなかつたものだ。

 (当時の蝦夷は未だ"鄙びた遠隔地"だつたらうから、東京の勇ましい聯中の目に、入らなかつたのかなあ)

グラスを干し、心に由無し言を移りゆかせるには、ジョッキや罐入りでは駄目で、矢張りどつしりした壜詰の麦酒が望ましい。かういふ樂みもまた、百五十年の時間に磨かれた、壜麦酒の魅力なんである。