閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

767 大坂の本棚に~ライカの本

 アサヒカメラ別冊が二冊と写真工業出版社の本が二冊。

 四半世紀ほど遡つた時期、ライカが慾しくて仕方なかつた頃があつた。併しライカのことは何も知らない。何もと云ふのは不正確で、ふたつは判つてゐた。

 第一に色々の機種があること。

 第二に諸々が高額であること。

 ライカ・マニヤの古老には笑はれるにちがひないが、古老にも初めてのライカはあつた筈だし、その時の気分は四半世紀前のわたしと同じだつたらう。

 予習しなくてはならない…と思つたかどうかは兎も角、ライカ関連の本なら、ライカ本体やレンズよりぐつと廉に入手出來るから、代替の手段だつたのは確實である。

 それから何台か、ライカを手に入れ、手放した。

 本は残つてゐる。

 今では殆ど目を通さない。理由は大きくふたつ。画像の一ばん上に置いてある『ライカの歴史』以外は文献的な値うちが無いこと。もうひとつは収められた文章が悉く酷いこと。

 後者に就てはライカ関連の本に限つた話ではない。書き手は文章のプロフェッショナルでない。それが大きな事情なのは判るとして、であれば編輯者が十二分に目配りをしなくてはならず、それも欠けてゐるのは、出せば賣れるだらうとあまく見込んでゐたとしか思へない。實際に買つたわたしが云ふと、説得力にも欠けるだらうが。

 だつたら棄てるなり譲るなり賣り払ふなり、すればいいぢやあないか。

 さう考へるのは自然な反応の筈で、併しどうもその気になりにくい。画像の一ばん下にある『入門 ライカの世界』(アサヒカメラの増刊號)は平成七年…實に廿七年前の發行で、これだけ古いと、その古さに値うちを感じて仕舞ふ。古いライカがその古さゆゑ、値うちを見出だされるやうなものか。

 今のわたしは一台もライカを持つてゐない。ライカを使つた時間の何倍か、何十倍か、ライカの本に目を通した経験から云ふと、買ふ使ふより、何を買ふか、あれこれ考へる点にあると思ふのだが、熱心で生眞面目なライカ・ユーザから咜られるのは、きつと間違ひない。