閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

776 コローキアルなハム・サンド

 ある朝、詰り仕事の前なんですが、家でトーストを食べるのが億劫になったので、通勤の途中にあるコンビニエンス・ストアに立ち寄ったわけです。何を食べるか数秒間迷いまして、撰んだのが二百七十円のハム・サンド。仕事場に用意された休憩所で食べたんです。二百七十円分だったかは横に置いて、それでも中々うまかった…念を押しますが、天來の美味とか、大仰にうまさではなかった…から、少し驚いたと、白状しなくちゃあなりません。要するに普段、コンビニエンス・ストアのサンドウィッチを食べる習慣を持たないから

 (こんなにうまかったか知ら)

と感じたんですな。厭な言葉を使えば、コスト・パフォーマンスは宜しくないと思うのですが…この場合の"コスト"は二百七十円として、パフォーマンスは何でしょうね。味や腹保ち辺りか。まあ次に食べるのが、いつになるか判らない食べものですから、踏み込まなくてもかまいますまい。

 

 コローキアルになりすぎた。

 いつもの口調に戻しますよ。

 

 二百七十円のハム・サンドをうまいものと思ったのには、はっきり理由がある。調味に辛子マヨネィーズを用いてあったからで、併し考えるとこれはおかしい。普段のわたしは、辛子を殆ど使わないんである。おでんにとんかつ、冷し中華に豚まんに焼賣、どれも辛子抜きでいい。麦酒にあわすソーセイジに限っては、マスタードをたっぷり添えてもらいたいとして、それ以外は無くてもこまらない。世の辛子好きからは、呆れられるか、咜られるか。

 それが云っては何だが、たかがコンビニのハム・サンドの辛子マヨネィーズを好もしく感じたのだ。妙に思うのは寧ろ当然である。それに二百七十円で儲けが出る程度だもの、パンもハムも辛子もマヨネィーズも、大量生産向けを使って、費用を抑えているのは、想像するまでもない。ありがちな

 「こだわりの素材で、味わいがどうのこうの」

などいうサンドウィッチから、たっぷり距離がある。尤も我われは、材料がよければ、組合せてもうまくなる…とは限らないことを忘れてはいけない。何を云っているのか解らなければ、コロッケ蕎麦を思い浮べればいいんだが、この稿の目的は、コロッケ蕎麦の批判ではなかった。

 例外は認めながらも、廉な組合せがお金を取れる程度にうまい食べものに変貌することは確かにある。だったら変貌には條件がある筈で

 「そいつはセンスと呼ぶんだ」

と云っては話が終る。結局はそこに落ち着くとしても、幾つかに分解は出來るでしょう。折角だから、ハム・サンドに引續いて登場願うと、これは主に

 

 イ)食パン

 ロ)ハム

 ハ)調味料

 

の要素で構成されている。これらが密接に(まさにサンドウィッチのように)関連するのは念を押すまでもないが、一旦は分けますよ。先ずはイ)の食パンは厚さと堅さ(或は薄さと柔かさ)で、食パン自体の味は、そこまで気にしなくても、差支えないと思う。名前から云って、主役なのはロ)のハムである。厚めのを一枚、薄いのを二枚とか三枚とか、薄い一枚か二枚を折り畳むとかが考えられる。塩っ気や歯触りで判断するのが妥当な態度だろう。生ハムと黑胡椒とオリーヴ油で仕立てたら、きっとうまい。併しイ)とロ)を密着させるのが、實はハ)、即ち調味料と強調の必要があるだろうか。ことに二百七十円のハム・サンドだからね、肝は寧ろこちらにあると見たって、誤りにはなるまいさ。

 

 サンドウィッチと云えば英國聯想するのは当然で、かの國の紳士は、お茶の時間にキューカンバー・サンドウィッチを嗜むそうだ。伊丹十三のエセーで知った。バタを塗ったパンにスライスしたキューカンバーを乗せ、塩を振って供するというから、何ともしみったれている。念の為に云えば、キューカンバーは胡瓜ですからね、その寒々しさは、いかにも英國紳士のお茶に似合う。

 伝統は兎も角、我われがハムにあわすなら、醤油に並ぶ万能調味料であるところの、マヨネィーズが望ましい。これなら不味くなる心配をしなくて済む。英國紳士がキューカンバー・サンドウィッチにマヨネィーズを用いないのは、マオンの料理人が佛國人なのを許してゐない證なのかも知れないと思ったが、自分で云いながら阿房なことをと切返したくなった。幾ら歴史は細部に宿り賜うとは云っても、ね。

 

 とは云え、残念なことに、ハムとマヨネィーズだけでは、些か弱い。決定力に欠けるというか、インパクト不足というか。そこそこ安定はしていても、武器が今ひとつ頼りないロボットのような感じがする。その強化策で

 「マヨネィーズにモジュール・カラシを追加すべし」

と最初に思いついたのはたれだろう。ペパーやガーリックではなく、辛子を撰んだのは、素晴しい着眼であつた。詰り前述の、ハ)が確定した瞬間である。

 調整には苦労があったらうな。マヨネィーズとの比率は当然だが、パンをべたつかせない粘度で、ハムの味を殺さず、それでいて辛子の風合いも必要で、試作試食再考の繰返しだったにちがいない。更に云えば、二百七十円で賣る條件を満たす必要もあって、開發のひとはきっと

 「ハムもパンもマヨネィーズも辛子も」

文字すら目にするのも、厭になったんじゃあなかろうか。と想像するに…わたしは、コンビニエンス・ストアの開發に知合いを持たない…、ハム・サンドを構成するイロハの均衡をいかに取るかが、要諦だったのだと思う。微妙な感覚と云っていいし、こういうのをセンスの一言で片附けるのは、ひどく乱雑だと云えはしまいか。

 

 ある朝、詰り仕事の前、でトーストを食べるのが億劫になったので買った二百七十円のハム・サンドを食べながら、そんなことを考えたわけです。高々二百七十円で何を云うんだろうねと苦笑を浮ぺる我が親愛なる讀者諸嬢諸氏よ、それがこの手帖の藝風なんだから、そこはもう諦めてくれ玉えな。ハムやマヨネィーズ、辛子に曖昧で複雑な歴史があるのは、確かにそうなんだけれど、そういうのはハム史マヨネィーズ史辛子史、もっと広くハム・サンド史の専門家に任すのが、賢明な態度ってえものじゃあ、ありませんか。