閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

803 まぶされた分

 某日。

 お晝を食べに行つて呑むことが稀にある。わたしが属するニューナンブなら、蕎麦屋で玉子焼きか板わさかを肴にお酒が殆ど。駄目な小父さんの気分に浸れるのがいい。

 「いやそれは、気分でなくつて」

實際に駄目なんですよと云はれたら、否定はしない。毎日のお晝ぢやあないんだから、かまはんだらうと、腹の底で呟きはするけれども。

 尤もひとりだと、そこまではゆきませんよ。わざわざ蕎麦屋まで出向くのは面倒である。何年か前までは近所にも蕎麦屋はあつたが(品書きにカレー・ライスや中華丼も並んでゐるやうな店だつた)、いつの間にか店を畳んで、駐車場になつてしまつた。

 麦酒が呑めるお店はある。ただご近所…住んでゐるひと、働いてゐるひと…向けなので、所謂"お晝ごはんの時間帯"に

 「麦酒を一ぱい」

とは註文しかねる。たれに見られてゐるわけでなく、咜られる心配もないし、こつちは休みなんだから、気にせず呑んだつていいのだとは思ふが、尊敬する内田百閒が『阿房列車』の中で、晝から景気よく麦酒を呑む三人聯れをにがにがしく思つて、同道の山系君に

 「晝日中から麦酒を飲んで、そら。猿の様な顔をしてる」

と云つたのが頭の何処かに残つてゐる所為か、どうにも躊躇はれる。まあこの時、百閒先生は同じ食堂で出發前のヰスキィを嘗めてゐたから、躊躇ふのはをかしいかも知れない。

 だから間を取つて、"お晝ごはんの時間帯"を避ければいいのだと考へることにした。猿の様な顔になつても、自分だけなら鏡を見ない限り、猿の様な顔は無いのと変らない。

 そこは十一時半開店だから、そこにあはせて入つた。卓について、お晝の日替り定食と一緒に

 「麦酒をもらへますか」

と云つた。もらへますかとは云つたが、貴方には出せませんよと拒まれる筈はなく、待たされることもなく、どうぞと麦酒が運ばれてきた。

 麦酒がいいのは、どこで呑んでも麦酒の味がするからだ、と書いたのはたれだつたらう。確かにそのとほり。ではあるけれど、その味がいつも同じとは限らない。晝の麦酒にはきらきらしい陽の光がまぶされてゐて、その分だけ旨かつた。