世の中には理解に苦しむことが時に起る。
大体はどうしてかうなつた、と頭を抱へたくなるのだが、稀にそのどうしてが喜ばしい方向に傾くこともある。
ある晩、呑みに行つたところ、つき出しで秋刀魚の塩焼きが用意されたからびつくりした。少々痩せてはゐたものの、焼きたてだから勿論うまかつたし、令和四年の今、この魚は不漁といふから、よくもまあ出せたと思ふ。
秋刀魚と聞いて聯想するのは先づ目黑のお殿さまで、いや目黑に出掛けた時の噺だつたか。そこから目黑に住んで、自宅近くの坂をさんま坂と名づけた(殿さまの噺に縁があるらしい)丸谷才一、更には膓から文學繋りで、秋刀魚苦いかしよつぱいかへと聯想は進む。我ながら取り留めもない。
漠然と聯想を游ばせ、しよつぱくて苦い肉と膓を摘み、また呑むのはまことに気分が宜しい。檸檬を少し搾ると香りが立つて、また嬉しくなつてくる。尤もこの一尾が四百円とかそれくらゐの筈だから、商ひになるのかと心配にはなる。確めるのは野暮だと思つたから、口にはしなかつたけれど。
野暮は口にしなかつた代り、骨は嚙み砕いた。