閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

826 厭らしい話

 どうも呑み喰ひの話が多い。おれが書いてゐるのは『閑文字手帖』なのだから、その手の話題でなくたつて、かまはないのだけれど、直ぐにその手の話題を撰んでしまふ。安直と云はれたら、反論が六つかしい。尤も安直でいけないのかと反論する余地はある。食べまた呑むのはひと、もつと広く生きものの根本的な習性といふか、生きる為の基だから関心を持たない方がをかしい。ここで念を押すとおれが云ふのはグルマンディズではない。呑み喰ひを趣味にするほど詰らないことはなくて、ああいふ人びとは他人の目が届かない場所でも、旬だの料り方だの器だの盛りつけだの、口喧しいのだらうか。気の毒な気がしなくもないが、それを莫迦ツ舌のおれの負け惜しみと見立てるのは間違ひと云ひにくい。

 えーと、何を書かうと思つてゐたのか。

 気にせず續けると、我われの日常が仮に判で押したやうに規則的であるとして(さう考へること自体、實は判で押したやうな単純さの顕れなのだが)、呑み喰ひまでさうなるだらうか。毎日立ち喰ひ蕎麦屋に行くとして、もり蕎麦一辺倒でなく、たぬきだの天麩羅だのを啜るだらうし、ラーメン屋だつたら、ラーメンだけでなく炒飯や酢豚の定食を食べたりするにちがひなく、これでは判子にならない。もり蕎麦で醤油ラーメンでも野菜炒め定食でも、大してちがはないと冷笑することも出來るのだらうが、冷笑家と食事や酒席を共にするのは退屈だらうと思ふ。同じ店の同じ生姜焼き定食が昨日と今日で異なる味に感じられることもある筈で、それは我われにとつて一ばん身近な変化である。そんな風に考へると、呑み喰ひの話が多くなるのはごく自然な流れと云へて、残るのはその話をどう書くかになる。そこが難問なのは今さら改めるまでもない。味と厭みほど、文字にするのが厄介な話の種はなく、この手帖で何十回、取り上げたか判らないが(数へれば判るだらうが面倒である)、うまく書けた記憶がない。旨い食べものや旨いお酒は、旨いといふ一線を過ぎれば後は口に適ふかどうかだから…ここを混同するひとを少なからず見掛けるのは不思議なことだ…、そこに踏み込むとグルマンディズに成り下がる。

 併し書いてしまふのは何故か。前段に戻つて我われに…おれとつてと云つたつていい…の一ばん身近な変化といふのはひとつにある。出來は兎も角、話の種にし易い。いやそれよりおれの場合だと、見せびらかしの気分がある。高級なリストランテだか飯店だか料理屋だかで、鴨を何かしたのとか、揚げた銀鱗に熱いあんをかけたのとか、旬の蒸しもの和へものではなく、自分で見つけた食堂でも呑み屋でも、そこで食べた日替り定食だつたり、肴のひと皿だつたりを自慢したいと思ふのは、自分の鼻の利き具合や舌を自慢したがつてゐるのと同じと思へば、随分と厭らしい態度である。どうです、旨さうでせう。