閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

829 一抹

 画像はそれなりに顔を覚えられただらう小さな呑み屋で出すツナ・マカロニ・サラドである。マヨネィーズは少めで、黑胡椒を効かしてある。マカロニの数へ方は知らないが、兎に角すこしづつ摘むと酎ハイなんぞをゆるゆる樂める。

 かう書いて気がつくのは、割りと狡い手口を使つてゐることで、詰りツナ・マカロニ・サラドの描冩を画像に任してゐるでせう。見て判ることを文字にする意味はないから、狡いと断じるのはちがふと云へるかも知れないけれど、手抜きと揶揄はれたら、すりやあさうだと応じざるを得ない。

 こんなことを云ひ出したのは、[閑文字手帖]は文字藝が本來の筈だからで、それはたれが決めたわけでなく、おれじしんがさう思つてゐるに過ぎない。その思ひこみの視点で見れば、画像に投げ出すのは、仮に狡くはなくても、手抜きの手口と云へる。我ながら謙虚な態度だなあ。

 ところで以前から何度か、或は何度も触れた通り、呑み喰ひを文字だけであらはすのは困難に属する。味を正確に捉へることと、正確に捉へた味を文字にするのは別々の能力が求められる。当り前の飲食を当り前に樂め、当り前の文學を当り前に樂めることを兼備するひとがゐるにしても、ごく少数なのは疑ひない。

 さうなると画像を使ふのは浅學菲才を補ふ手法…自転車の補助輪のやうな…と理窟を貼りつける余地はありさうで、ぢやあそれでかまはないかと自問すると、[閑文字手帖]を文字藝と自称する以上、まづからうなと自答せざるを得ない。なのでここから出來るだけこの手帖を、文字だけにしてゆかうと思つた。尤も果してうまくゆくものか、一抹の不安は残る。

 

 それはさうと、このツナ・マカロニ・サラド、中々うまいんですよ。