閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

830 仄暗い部屋

 この稿を書いてゐるたつた今、雨の音が聞こえてゐる。その音は窓外の仄暗さと寒さを聯れ、暖房も灯りと使はない部屋に染み込むやうで、何とも快い。その部屋でラヂオを附けつぱなしにして、その辺にはふり出した吉田健一の短い随筆に、散ら散ら目を通すのは佳い気分がする。あの批評家の随筆には曇天や雨が似合ふ。その吉田の「羽越瓶子行」の中に

 

 朝飯の途中で雨が降り出した。今度の旅行は雪の山が見え始めた頃から曇っていて、それが酒を飲む気持ちを更に引き立ててくれたが、この時の雨のように旅情を覚えさせてくれたものはなかった。

 

とあつて、前段に朝めしが記されてゐる。曰く。

 韮と生卵を掻き混ぜたの。

 とろろ。

 剥き蕎麦(皮を剥いた蕎麦の實を茹で、鶏のたたきで味をつけてある)

 自家製の味噌で仕立てたお味噌汁と味噌漬け。

 鱒の照焼き。

 そこに昭和十三年の初孫ときたら、すりやあ雨を喜びたくもなるさ…と思つたのが、記憶の奥底に残つてゐる所為だらう。一ぺんくらゐ、安もののホテルで眞似事をしたくもなつて、かういふのも文學の効能と呼んでおかう。

 もうひとつの効能は、雨天の日中、呑む気分の佳さを知つたことで、吉田には無礼を云ふことになるが、その随筆を讀むよりもつと気分が宜しい。初孫があれば文句はない(確かにあれはうまい)が、罐麦酒でもその辺のマーケットで賣つてゐる葡萄酒でもうまく感じる。買物に出なくてはとか、何やらの支払ひに行かなくてはと思つても、まあ雨だからけふはいいでせうと、たれを相手にするわけでもなく云ひ訳を口にして、冷藏庫から罐麦酒を取り出し、昨夜の残りのおでんを温めなほしたり、おでんが無ければハムを出したり、或はお酒だつたら、お漬物だの佃煮だの梅干しだのでもいい。焼き海苔とチーズがあればしめたもので、何を呑むにしても適ふ。経験として云ふと、かういふのはお午過ぎから始めるのが丁度宜しい。だらだら…訂正、ゆるゆる呑める。途中で風呂に入り、またごはんを炊きもしながら、麦酒の六本入りと葡萄酒半壜を空けた頃には眠くなるし、眠り込んでもかまはない程度に時間も経つてゐる。

 などと云つたら、我が健全で潔癖な讀者諸嬢諸氏は、アルコーリズム患者のやうだ、と眉を顰めるにちがひない。それで鬼籍に入つた大叔父の呑み方を思ひ出す。大叔父はアルコーリズム患者…有り体に云へばアルコール中毒者だつたが、その呑みつぷりはアルコールを知らなかつた少年(おれのことだからね、念の為)の目には見事に映つた。

 一升壜の蓋を開ける。

 コップに注ぐ。

 一升壜の蓋を閉める。

 そのコップを目の前に掲げる。

 笑む。

 注いだ酒をすつと干す。

 といふ流れを一定の間隔で繰返し、繰返し續けた。大量の酒精を一ぺんに流し込む必要はなかつたらしい。今となれば聯れあひの大叔母は迷惑至極だつたらうと想像は出來るが、おれは大叔父に可愛がられてゐたから(おれに向けられたのは笑み崩れた顔しか記憶にない。それに零歳児のお正月に大枚五百円のお年玉を奮発してくれたさうだ)、惚れ惚れしたといふのが正直なところである。それで後年讀んだライアルの『深夜プラスワン』(名作ですよ。秋の夜長を潰す価値がある)に登場するアル中ガンマンのハーヴェイ・ロヴェルの呑み方が大叔父と同じだつたから驚いた。

 

 彼は短時間に大量飲む必要はないのだ。切れることなくチビチビと飲んでいればいい。ただそれが、体が溶けてしまうまで続くのである。

 

 菊池光が訳したこのくだりを目にして、驚きはしても不自然には感じなかつたのは、大叔父の姿を思ひ出したからである。尤も憐れなガンマンは後段で、味が判らなくなつたのだと嘆き、パリの本当にうまいマーティニを作るバーテンダーを懐かしむ。身内の贔屓で云ふと、大叔父は最期までお酒をうまいと思ひ續けたと信じたい。何だか感傷的だな。

 吉田健一に戻るとあのひとは、朝から呑み始め、気がつけば晝の陽射しになり、さうかうする内に庭を夕闇が覆ひ、月明りが照してゐるなと思つてゐたら、夜明けになつてゐて、朝だの夜だの忙しいねえと呟きながら呑み續けるのが理想だと書いてゐる。尤も實際の吉田は家では呑まず、週に一回くらゐとことん呑む(年に一度の金澤行は除いて)生活だつたといふ。言行の不一致も甚だしいとも云へるけれど、自分にさういふ節制を課してゐたから、理想が浮んだのだとも考へられる。それが「羽越瓶子行」の朝めしで顕れたとすれば、おれがあくがれても非難される筋はあるまい。ロヴェルの、或は我が大叔父のやうに"切れることなくチビチビ"呑み續けるなら、醉ひはしても泥醉には到らない。さういふ呑み方の背景に曇天や雨音ほど似つかはしい天候はあるまい。

 と理窟を捏ねたところで、そろそろ書くのは止めにして罐麦酒から始めたい。冷藏庫にはハムとスライス・チーズ、それから味つけ海苔だつてある。さうだ、雨にかまはずマーケットに行つて、ワンコインの葡萄酒を買はう。開けて注いで蓋を閉め、コップを目の前に掲げて笑んだらすつと干す。仄暗い部屋で呑むことを考へ書くより、實際に呑む方がうまいし樂める。