閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

831 中庸無難

 コンビニエンス・ストアのおでんが中々にうまいとは、最近まで知らなかつた。偶々五種類くらゐの種を袋詰めにしたのを見掛けて、何の気もなく買つて食べたら、こりやあ惡くないぞと驚いたんである。きちんとお出汁を引いて、きちんと下拵へした好みの種を、きちんと煮る方がうまい、と云はれたらすりやあそのとほりだよと認めるのに吝かではないにしても、それがコンビニエンス・ストアのおでんがまづい理由にはならない。

 

 尤もつゆは鰹節のにほひが鼻について、おれの好みではなかつた。なので鍋に移す時にはつゆを全部は入れず、水と買置きの濃縮出汁と醤油で味を調へた。弱火で温めながら、さて何を呑まうかと考へた。当り前の聯想ならお酒で、おでんでお酒をやつつけるならお燗が好もしく、ただ残念ながらお燗する用意がない。諦めた。麦酒は気分に則さない。暫く迷つて、廉な葡萄酒が冷藏庫にあるのを思ひ出した。五百円とかそんな値段で買へるやつ。

 

 いつだつたか、某所にあつた葡萄酒の立呑屋で、おでんを用意してゐた。種はごくありふれた大根や厚揚げ、牛すぢの類。ただそれらをトマトで取つたソップで煮て、マスタードを添へて出したのが洒落た感じでうまかつた。その時は面白い組合せだなあと思つたが、佛人だつて何やらの煮込みをつつきながら葡萄酒を呑むだらう。不自然な組合せとは呼べまい。さう考へたら、コンビニおでんに五百円ワインの組合せだつて、無理は生じないに決つてゐるさ。

 

 お皿におつゆを入れ、辛子の代りにチューブ入りの生姜を少し絞り、そこに種を盛つた。大根、玉子、竹輪に平天、魚の擂り身を丸く揚げたの、結び昆布、板蒟蒻。葡萄酒を呑むから、お箸ではなくホークにした。その葡萄酒は湯呑みにざぶざぶ注いだ。五百円だからね、グラスをくるくるまはして香りを確めるのは省いてもこまりはしない。ああいふ仕草は一種の儀式である。儀式が大切なのは念を押さなくてもいいでせう。お酒を呑む際に盃を目の前にちよと掲げるのと同じで、さういふ動作…儀式が一杯の葡萄酒やお酒を旨くする。さういふことは知つてゐるが、それは儀式を求める葡萄酒やお酒を樂む夜に取つておかう。

 

 おでんは大根から始める。それから玉子を半分に割つて、割つた面をつゆに浸す。黄身をとろかすのが目的である。これも儀式の一種か知ら。安葡萄酒を引つかけつつ、蒟蒻を囓り、平天を囓ると、思つてゐたよりうまい。頭の隅で、ボルドーブルゴーニュと老舗のおでんを組合せたら、もつとうまいのかねえと考へ、さうはなるまいと考へ直した。一ぺん生牡蠣とシャブリを試したが感心しなかつた。それぞれのうまいところが喧嘩をしてゐると思へ、佛國の牡蠣だつたらちがふんだらうなとも思つた。ある國や土地で育つた酒精は、その國や土地の食べものと密接するんだから、ボルドー乃至ブルゴーニュと老舗おでんの相性は、シャブリと生牡蠣に近しい。ゆゑにこの手の組合せ…幾らおれが図々しくたつて、マリアージュとは称せない…は、中庸無難を撰ぶのがいい。

 

 そんなことを考へてゐたら、おでんを平らげ、つゆを干して、葡萄酒も半壜ほどを空けてしまつた。鍋に残つたつゆをどうすればいいだらう。焼酎を割るのに使つてもいいが、おれは家で焼酎を呑む習慣を持たない。黑糖焼酎は外で呑むから例外である。さて、と三秒ほど腕を組んだら、お晝に蕎麦か饂飩か棊子麺をうがくのがいいと思ひ浮んだ。葱を散らして温泉卵を乗せたら、残りものらしからぬ豪華さにきつとなる。今度はお酒を引つかけながら啜り込まう。