閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

852 令和四年末から五年三ヶ日の話

 令和四年師走廿八日。

 エヌから聯絡が入つた。翌廿九日に会つて游ぶ予定だつたのが、奥の方が武漢發と思はれる感染症の陽性判定が出て

 「濃厚接触者になつてしもた」

さうで、単身の赴任先から帰れなくなつた、すまん延期したいと云つてきた。エヌの責任でないのは勿論、奥の方に非があるわけでもない。御安全にと返事をした。

 

 師走卅日。

 ニューナンブの頴娃君と遠隔で呑み會。アサヒの[ジョッキ生]、銘とヴィンテージが曖昧な佛國の葡萄酒。お漬物におびいこ…醤油で焚き染めた縮緬山椒…にチーズ。

 例によつて莫迦話。そつちは省略して、令和五年は(様子を見つつ)何年振りかの甲州行を計劃したいものだと意見の一致を見た。二泊三日。甲府市内の呑み屋を訪ねるべし。

 勝沼のマルキとシャトー・メルシャン、甲府のサドヤ、北杜の白州と七賢。取捨撰択は六つかしいが、迷ふのも樂みのうちだと、こつちも意見の一致を見た。

 

 大晦日

 朝からいきなり、母親が体調を崩した。八十路を過ぎてゐるのだから、どこかここか、変になつたところで、寧ろ当然であらう。冷淡な言ひ種と云はれるやも知れないが、不安に思ふのとは別である。父親と近所のマーケットまで買物に出掛け、食事の用意だの片附けだのをした。

 早鮓と冷したお蕎麦。

 

 令和五年正月元日。

 御佛壇に新年の挨拶をして、お屠蘇代りに[野可勢]を一ぱい。蒲鉾、海老芋を焚いたの、それから棒鱈。お澄しにお餅はふたつ。實業團驛傳を観た。

 正月二日。

 父親と一緒にマーケットまで初賣りのお遣ひ。体調がやや戻つた母親向けに京風饂飩とゼリーとプリン。

 箱根の驛傳(往路)と大學のラグビーと高校のサッカーをテレ・ヴィジョンで見物。エヌから三日に盃を交はせないかと聯絡があつたが、母親の様子を見たい。四日にしてもらへまいかと云つたら諒との返信があつた。

 

 正月三日。

 箱根の驛傳(復路)を見物しつつ、今年の手帖…参考までに云ふと高橋書店の"リシェル2"…を用意。私の場合、手帖は管理より記録が主な目的になるのだけれど、予め書いておきたい事柄が無いわけでもない。

 驛傳を観てから、冷凍の炒飯(中々うまかつた)と蒲鉾を摘んで[スーパードライ]を一本呑んだ。それから昨日同様、マーケットへ。言ひつかつた稲庭饂飩と饂飩つゆ、銅鑼焼きは二種類。頼まれた鰈の煮つけは残念なことに賣り切れ。

 「湯豆腐なら、食べられさうな気がする」

と云ふ母親の見立てで、晩めしはさうなつた。焼豚で[ヱビス]をやつつけ、[野可勢]で湯豆腐をつついてゐたら、母親がいきなり椅子からずり落ちた。大晦日以來、食が極端に減つてゐた(京風饂飩を半玉とか、レトルトのお粥をお茶碗に三分ノ一くらゐ)から、体力は落ちてゐるし、貧血の気もあつたのか。兎も角も無理には動かさず、時間を空けてベッドに寝かし、エヌとの予定は取消しにしてもらつた。

 詰るところ、画に描いたやうな"無為徒食"であつた。

 例年、さうではないかと云はれたら、まことに御尤もと頷かざるを得ないけれども。