閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

854 丸太花道、東へ

 東へ、下らねばならない。

 昨年末、母親がからだの調子を崩し、万全に戻つてゐるわけではないから、どうにも落ち着かず、さてどうするかと考へた。予定通り東下するなら、午前中に出立となる。時間の許す限り、様子を見ることに決めた。

 「さうは云つても、仕事があるでせうに」

といふ聲がしなくもないが、仕事はたれかに任せたつてかまはない。身内のことは自分しか出來ないと思へば、どつちの優先順位が高いか、迷ふまでもない。母親にさう云ふと、心なしか安心した風な表情になつた…と感じたのは、不肖の伜の思ひこみに過ぎまい。

 

 朝になつて訊くと、血圧も正常…体調を崩す前くらゐ…まで戻つたと云ふ。それでなほ、をかしいとなつたら

 「救急車を呼ぶ」

とも云つたので、東下してもまあかまふまい、いざとなれば直ぐ西上すればよいと思つて、珈琲を一ぱい喫した。

 お晝前に温泉玉子ととろろ昆布を入れた饂飩をひとつ。何故だか罐麦酒を出してもらへたので平らげたら、お腹が膨れた。煙草を吹かしながら、散らかした荷物を片附け、東海道新幹線の時刻表を確めた。新大阪驛始發は一時間に数本あるので、坐つて帰れるだらう。支度をし、御佛壇に挨拶をして正午過ぎに出た。阪急電車の最寄驛への途中、氏子になつてゐる神社にも挨拶をした。十日戎の掛け聲がした。

 大阪梅田驛に出て、中古カメラ屋をちよいと冷かし(あやふく衝動買ひをしさうになつた)、東海道新幹線(のぞみ號)の上リ切符を買つた。あつさり指定席が取れた。

 新大阪驛まで一驛。新幹線側の構内にある喫煙所で一本吹かしてプラットホームに上がる。賣店で罐麦酒を二本とサンドウィッチ("たっぷりタマゴサンド"と書いてあつた)を買つたら、我がのぞみ號が入線してきたので速やかに乗車。

 席は例によつて二人掛けの通路側。窓側にはお嬢さんが坐つて、卓にパーソナル・コンピュータを置いてある。仕事なのかな大変だなあと思つたら、録画したとおぼしき動画を再生してゐたから、何となく安心した。

 京都驛から發車するのを待つて、一本目の罐麦酒(一番搾り)を開ける。それから"たっぷりタマゴサンド"をひと切れ。予想のとほり、名前ほどたつぷりではない。尤もだからといつて、名前を"ちょっぴりタマゴサンド"にしてもらひたい分量でもない。文句は云はないでおかう。

 

 東海道新幹線の車窓から見える田舎風の景色は、田畑と大規模な工場とひくい建物と涸れた河川である。

 さう感じたのが岐阜羽島驛を過ぎ、名古屋驛が近くなつた辺りで驚いた。いつも飽きずに思ふのは、どこかから別のどこかへ行くには、掛かるべき時間といふものがある。我がのぞみ號の速さは、どうもそれを上回つてゐるらしく、毎度同じことを思ふくらゐだから、年に一度や二度の乗車で馴れる速さではないのだらう。

 さういふことを考へつつ、二本目の罐麦酒には(黑ラベル)を開ける。お隣のお嬢さんに、どう映つてゐるのか、気になつたので、横目でちらりと見ると、うつらうつらしてゐたから安心した。窓の外は濱名湖を過ぎ、掛川驛を過ぎてゐた。録音してゐたラヂオ番組を聴きつつ、けふの晩と明日の朝の買物をしなくてはならんと思つた。東が近づいてゐる。