閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

873 計劃を立てるまでの話

 文久二年陰暦葉月廿一日、京へ向かう薩摩國島津久光一行の行列に、四人の騎行した英國人が乗り入れてきた。まずい組合せだった。当時の英國は世界一の大帝國…しかも傲岸で尊大な…だったことがひとつ。薩摩は薩摩で当時、日ノ本六十余州随一の武装集団だったのがもうひとつ。薩摩側は馬から降りて道を譲れと命じたが、英國の四人は理解出來なかったのか、無視をしたのか…おそらく後者だろう…、薩摩武士に斬られてしまう。世に云う生麦事件である。念の為に云うと、生麦は地名…事件当時は武藏國橘樹郡生麦村、現在は神奈川県横浜市鶴見区生麦一帯。血腥い呼称を残した理由はよく判らない。この件を切っ掛けに薩英戰争が勃發し、薩摩の獨立性が高くなり、倒幕から西南ノ役まで繋がると思えば、前近代から近代初期の日本史を俯瞰するに、忘れ難い地名なのは間違いのないところだけれど。

 

 京浜急行電鉄本線にその地名を冠した生麦驛があり、更に十分ほど歩くとキリンビール横浜工場がある。見學と試飲を樂めるのは云うまでもない。その見學が再開されたので

 「だったら、行こうではないか」

そう話が纏まった、と云ったら嘘になる。嘘が極端なら不正確と云ってもいい。順序を出來るだけ正確に記せば

・全國の旅行支援が續いている。

・一部の東横インが対応している。

・千葉方面に該当する場所がある。

津田沼サッポロビール工場見學を目論む。

・周辺が諸々寂しいのに気づく。

・横濱方面にも該当の場所があると判る。

・だったら、キリンビールを目指しましょう。

上の流れで纏まったので…そうだ、忘れないうちに、これはニューナンブの頴娃君とのやり取りである。かれはこの手帖に度々顔を出しているから、記憶にある讀者諸嬢諸氏もおられるでしょう。その頴娃君とのやり取りに到ったのは

 「(久しぶりに)顔を見て、一ぱい呑りたい」

と考えたからである。解り易い動機だなあ。それで先ず、キリンビールの予約を取った。それから鶴見にある東横インの予約も取って、基本の準備は出來た。さて見學以外はどうしようか。そこで頭が働かなくなった。一体おれは土地勘がにぶい男なので、生麦と他の地名との位置関係や移動の経路が浮ばないんである。頴娃君はそういう空間の把握に長けている。この違いは何に起因するのだろうね。

 そういえば生麦が鶴見にあるとも知らなかった。鶴見区横浜市の東端に位置し、川崎市に隣接する。地名の由來ははっきりしない。区を流れる鶴見川に因むのは確かだが、鶴見川が何故、鶴見川になったのか。区のホームページ("鶴見区の歴史"内にある"鶴見地名考"…云いたくはないが、たいへんに讀みにくくて困らされた)を見ると

源頼朝が鶴を放ったからという説。

・川の地形に依る説。

があるそうだ。後者の地形というのは川の流れが湾曲し、緩かに澱んだ箇所をトロ(瀞)と呼ぶらしく、これがツル(鶴)と同義という。ここに周辺を意味するミが結びついてツルミになったと説くのだが、怪しい気がする。鎌倉の佐殿説だって怪しい(あのひとにそういう雅めいた態度が取れるとは思いにくい、と云うのは意地の惡い見立てか知ら)けれど、『吾妻鏡』に鶴見の記述はあるから、十二世紀以前に(少くとも)集落として存在したのは間違いない。

 寝床になる東横インは鶴見驛に近い。旧國鐵の京浜東北線鶴見線、それから京浜急行電鉄本線が通っている。路線図を見ると、生麦驛からは後者で二驛。鶴見驛からは横浜桜木町関内まで程近いから驚いた。キリンを樂んだ後の自由度は高いと踏んで間違いあるまい。あわせて頴娃君の情報だと、鶴見驛の近くにはCIAL鶴見という驛ビルがある。また京急ストアがあるのも分かった。晩めしの心配もしなくて済みそうで安心した。具体的なことは矢張り、浮ばないけれども。

 ところでニューナンブは伝統的に打合せを重く視る。以前は田町にあった某居酒屋で實施するのが慣わしだった。サイコロ・ステイクを食べながら麦酒を呑んでから、お刺身の四点盛(必ず"おまけ"と称して二品が追加された)をつついて冷酒を平らげ、ああだこうだ游びの予定を立てるのはまことに愉快だったの。併し何年か前にそこが閉店したのと、感染症が大流行した所為で、膝を突き合わせての打合せは中々六つかしくなった。頴娃君は進歩的な男だから、リモート方式の導入にも躊躇しなかったが、こっちは頭が古くさいから距離を置く態度を崩せていない。ただ何がなんでも厭だと云うほど、頑迷な積りでもない。ここはひとつ、遠隔式の打合せに臨むこととしようと決めた。