生姜どんたくではない。
彌生の十七日は金曜日。
天気予報を確めると、午后遅くから空が崩れ、翌十八日は終日雨となつてゐた。まづいと思つた。十八日土曜日は生麦で麦酒を呑む…訂正、生麦にある麒麟麦酒工場の見學(午前十時半の回)を予約してゐるからで、歓迎出來る空模様とは呼びかねる。併し天候は文句を附ける相手がゐない。諦めて準備をすることにした。
準備と云つても、着替への下着と靴下、それからカメラと充電器を詰めれば済む。大した手間ではない。詰めながら天気予報通り荒天になつたら、いつ以來かと考へた。どんたくは一体、天候には恵まれる方だから判然としない。記憶を辿ると、初めて訪れた時の下田行き(笑ふしかない大雨だつたなあ)、ニューナンブが全員揃つたにも関らず、大雪に見舞はれた熱海以來になりさうである。
持ち出すカメラは予定通り、パナソニック製12-32ミリを附けた、オリンパスのE-PM2とする。GRはⅢもデジタルⅡも自宅待機。序でに今回のどんたくでは極力、スマートフォンのカメラ機能を使はない方向でゆかうと思ふ。信念を持つての話ではなく、カメラ一台に集中するのもよからうと、さういふ気分の話なので、念を押しておく。
十七日の夜から雨音が聞えてきた。翌朝になつても雨音は續いてゐた。然も肌寒い。うんざりした。麦酒に曇り空は似合つても、雨はいけない。呑み始めた後はかまはないが、出掛ける時は遠慮してもらひたい。
珈琲を喫みながら、けふからダイヤグラムの改定があつた筈だと気がついて、念の為に確認した。事前に調べた通り、品川驛九時廿九分發の京浜急行で川崎驛を経由し、生麦驛着到は同五十二分だつたから安心した。菓子パンをつまんでから陋屋を出て、途中で煙草を二函買つて、電車に乗つた。
総武中央緩行線から新宿驛で山手線に乗継いで、この環状線に乗るのは何年振りかと思つた。自分の出不精と行動範囲の狭さは自覚するところだが、改めてそんなでいいものか、疑問を感じなくもない。
予定通り、品川驛で旧國鐵から京浜急行線の快速急行三崎口行きに乗り継ぎ。京浜の品川驛は電車が引つ切り無しに出入りして賑かである。ただ驛の構内が薄暗く、車輛も何だかくすんだ感じなので、賑かな筈の出入りが却つて寂しさを強調してゐる。京急川崎驛で各驛停車浦賀行きに乗り換へ、生麦驛で下車。ここまではよかつたが、急にお腹の具合が乱れてしまつた。用件を済ませたら、歩くと予約の時刻に厳しくなる。タキシを奢つた。必要経費と自分に云ひきかした。
大急ぎで受附を済まし、無事に頴娃君と合流して、見學に臨んだ。
担当はササさん。名札にちらりと目をやると"研修中"とあつた。マスクをしてゐたから、表情は解らないけれど、緊張があるのか、たいへん眞面目な、併し快活な話しぶりで、好感を抱かないわけにはゆかない。
最初に原料となる大麦の味見をした。香ばしい。そのままお摘みになりさうだと思つた。それからホップの香りを聴いた。ソップにあしらつたら洒落た感じになりさうである。麦酒の原料を摘みに麦酒を呑むなんて、粋ではあるまいか。
醗酵や貯藏の巨大なタンクに、その工程が映されたからびつくりした。なんといふか、エンタテインメントだなあ。ここでササさんが強調したのは麦汁の搾り方で
「一回だけ搾つた麦汁を使ふから、"一番搾り"は美味しいんです。一般的な麦酒はその後、お湯を入れてもういつぺん搾る二番搾りを使ひます」
成る程。知つてゐた筈なのに、改めて感心した。そこから少し歩いた処の卓で立ち止つた。
ではとササさんが云ふと奥の壁が開いて、並んだ紙コップが目に入つた。これから
「麦汁の一番搾りと二番搾りを飲み較べてみませう」
先づ見た目…色の濃さがちがふ。鼻を近づけたら、香りの立ち方も丸でちがふ。舌に乗せると味はひも断然ちがつて、ササさんが自慢するのも納得出來た。これもまたエンタテインメントである。
麒麟自慢の"一番搾り"は大体、その理由が解つた。併し矢張り實際に呑まなくては納得の最後の一片が嵌まらない。詰り試飲。以前は引換券方式で二はい呑めた。今回は受附で引換券をもらつてゐない。どうなのかと思つてゐたら、最初の一ぱいは綺麗に注がれたグラスで味はへた。直ぐに呑んだ。
(お代りはどうすればいいのか知ら)
不安になつたところへ、ササさんが云ふには
「ちよつとした、セミナーを樂んでください」
何が始るのかと思つたら、"一番搾り"三種…定番と"プレミアム"銘のと黑麦酒仕立ての呑み較べ。お酒や葡萄酒のかういふ趣向は経験があるけれど、麦酒では初めてである。
順に香りを聞き、また味はふと、"プレミアム"が際立つてゐた。"一番搾り"自慢の大麦香が鮮やかで、口当りや喉への入り方が實に滑かでもある。但し無條件で絶讚出來るかと云へば、麦酒それ自体が美味しすぎて、お摘みを拒むか、限定的にしかねない危ふさも感じられた。飽かず呑むなら、定番基本のが一ばん好もしい。
「併し、見掛けた記憶がありませんなあ」と"プレミアム"を気に入つたらしい頴娃君が呟くとササさんが「いはゆる贈答用か、一部の(きつと高級の意味だらう)レストランでしか扱つてゐないんです」
申し訳なささうに教へてくれた。そんな事情なら私の目に入らなかつたのは寧ろ当然と云つていい。
見學は恙無く終り、我われ参加者は大きく手を拍つて、ササさんの丁寧な案内に敬意と感謝を示した。外に出ると、雨は本格的に降つてゐた。
「予定を変更しませう」
「異議なし」
ニューナンブは速やかに鶴見へと移動することとした。