閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

916 令和最初の甲州路-雨天晴天(中續)

 勝沼ぶどう郷驛でタキシを降りると、甲府行各驛停車が出たところだつた。うまく乗れればいいと思つてゐたのだが、止む事を得まい。尤も次の電車は一時間後である。雨がざぱざぱ落ちる中、うろつくのは無理がある。それに一時間後とは云へ、元々乗る予定の電車だから、気に病まなくとも宜しからう。幾ら何でも甲府までタキシは奢れない。

 がらんとした薄暗い待合室に並ぶ堅い木の椅子に腰を下ろした。窓を叩く雨粒を眺め、湿つた靴下が厭だなあと思ひつつ、何か記憶に引つ掛かつた。確めたら、百閒先生とヒマラヤ山系氏が、國府津驛で沼津行に乗りかへ損ねた挙げ句、降りだした雨にうんざりしつつ二時間待つくだりが、『区間阿房列車』に収められてゐた。詰り私の経験ではない。自分の経験でもない情景が、記憶に残つてゐたのは面妖だけれど、文學のちからだと見立てれば当然に思へてもくる。併し確めたのは帰つてからだから、待合室の私は未だ記憶の引出しを開け閉めしてゐる。

 午后四時十八分、我われは甲府行きの電車に乗つた。

 甲府驛のコインロッカーに預けてあつた大荷物を取り出して、併設されてゐる[セレオ]に立ち寄つた。翌朝用の穴子のお寿司(握りと巻き)、麦酒(アサヒのエフ)を買つた。序でに[ローソン]に寄り、サントリーのトリプル生と小さなマカロニ・サラドも買つて、東横インにチェック・インをした。二泊三日、割引の適用があつて、一万四千円余り。頴娃君と一旦、別れて、あてがはれた部屋(最上階)に入つた。荷物をはふりだして、煙草に火を点け、トリプル生を呑んだ。マカロニ・サラドも摘んだ。ニューナンブの用語でこれを"駆けつけ一ぱい"と呼ぶ。窓の外を見ると、雨はほぼやんでゐる。半日おそい。甲州の空に苦情を云ひたくなつたが、その半日分の予定は、既に終つてゐる。なので苦情は諦め、頴娃君が予約してくれた呑み屋まで足を運ぶことにした。

 

 一階のロビーで落ち合ひ、外に出た。すぐ隣に串焼屋があつた。チェック・イン前には見過ごしてゐた。ちよいと惹かれるものを感じたが、今回は決つてゐる。東横インの裏手、歩いて数分くらゐだから、午后六時半の予約に遅れる心配のない距離である。その呑み屋…[和想]はごく地味な雑居ビルに入つてゐた。一階のエレヴェータ前に貼つてある着附け教室のポスターを見た頴娃君曰く

 「ラウンジでも営業してゐさうだ」

かれの聯想はこちらと異なる方向を指してゐる。[和想]は三階。ちよいと気取つた(余り身に附いてゐない)かまへがあつて、我われはのそのそ入つた。席は頴娃君の配慮で個室。小上りである。さて。最初の一ぱい…と口に出さず、品書きを見て、矢張り麦酒でせうとお互ひ一番搾りにした。

 ジョッキをごつんとあはして乾盃してから、お摘みを撰ぶべく、改めて品書きを眺めた。食事らしい食事は[きり]から採つてゐないのに、大して空腹ではない。当初の予定とちがつて、バスやタキシを奢つたから、お腹を減らすには到らなかつたのだらう。併し食べたくないわけではないし、品書きにあるお摘みは旨さうでもある。つき出しをつつきながら検討した結果、我われは以下の三品を撰んだ。

 

・馬刺(赤身と霜降があり、前者が廉。頴娃君が"おすすめ"を訊いて、赤身にした)

・鰻肝焼き

・日本酒で煮た角煮

 

 馬刺に就て附記しておく。私は食べたいと思つたが、頴娃君はお晝の[きり]で、既に馬刺を肴にしてゐる。なのでその点は事前に確認済みである。小聲で云ふと、頴娃君が[きり]で食べた馬刺は赤身だつたから、かれは霜降を試したかつたのではなからうか。

 その馬刺が最初に運ばれてきた。ぱつと見て、冷凍のやつを無理やり解凍した色みではないと思つた。馬刺は(私の知る限り)多くの、或は殆どの場合、半分凍つたのを出してくるから、それだけで嬉しくなつた。大蒜と生姜を少々、葱を置いて醤油をつけて食べると、果してうまい。

 一番搾りが空になつた。鰻の肝焼きがきた。歯触りの粘つこさが快い。頴娃君は木火土金水といふややこしい銘柄のお酒。私は上喜元をお代りに註文した。どちらも硝子の一合徳利。念を押すと、我われのお喋りは止つてゐない。ここに書かないのはすつかり忘れてゐるからに過ぎず、すつかり忘れたのは中身が無かつた所為である。酒席の會話なら、その程度が望ましい。

 そこまでは宜しい。

 角煮がこない。忘れてはゐなささうである。多少なりとも時間の掛かる料理なのは判るとして、いちから煮てゐる筈もない。混雑してゐるからか(我われが入つてから、次々お客が來たのは間違ひない)、厨房の手が足りてゐないからか。[和想]に事情があつたと考へるのは吝かでないが、こつちは呑んでゐる。呑んでゐると我が儘になるのは、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏も同じでせう。それでも軀に残つたつかれに、醉ひが混ざつて、ちよと苛々した。別のお摘みを頼む案を出さうかと思ひ、そつちでなほ、待たされるのは厭だと思ひ直し…上喜元が空になる前に、お待たせしましたと角煮が運ばれた。さうなると私は調子のいい男だから、先刻までの苛々を忘れてしまふ。

 辛子をほんの少し…私は辛子を積極的に好まない…塗つて食べるとうまい。どの辺が"日本酒で煮た"のかは判らないけれど、そこに拘るのは野暮な態度と云ふべきか。いい具合に上喜元も干した。角煮なんだから、似合ひは焼酎だらう。水割りのちんぐをお代り。頴娃君は谷桜。後一ぱい呑み、また摘むのもいいかと思つたが、惡醉ひの引き金になりさうでもある。物足りないくらゐで収めませう。明日もあるし。それで會計を済ませて東横インに戻つた。シャワーを浴びてどうかうしてゐた筈が、朝になつてゐた。