閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

918 令和最初の甲州路-雨天晴天(後續)

 お晝に何を食べませうかと、車中で話し合つた。目星をつけてゐた地麦酒のお店の開店が、次の予定とあはないと判つたから、次善を決めねばならない。かういふ時に頴娃君の調べは素早くて

 「ここがあるです」

洋食屋の情報を寄越した。珍しい。併し葡萄酒を味はつてからの洋食は好ましいし、甲府驛からも遠くない。賛成した。

 バスを降りてスマートフォンの地図を見たのは頴娃君で、何故といふに私は地図が讀めない。まつたく讀めないのではなく、現實と図を噛み合はすのが極度に下手なので、歩きながら見るのが困難なのである。仮にラリーのナビゲーターを任されたら、その車が遭難することに疑念の余地はなく…ドライバーである頴娃君の目には、信じ難く映るらしい。

 暫し歩く内、そのお店の営業が午后一時半までと気が附いた。既に時計は午后一時を過ぎてゐる。とても間に合ふまいし、間に合つたところで、食事を樂めもすまい。

 「これは貴君」

 「止む事を得ません」

意見の一致を見て、[きり]の再訪へと方針を変更した。後が多少詰つてゐるから、酒肴は控へ、千百円の蕎麦定食(掻き揚げ附き)にした。頴娃君はお刺身附きの定食とお酒を一ぱい。隣の卓では晝の小宴會なのか、麦酒の壜が並び、眞ん中には、兜焼きと思しき残骸を乗せた大皿があつた。甲府人は豪勢だなあ。

 尻が落ち着かないと思ひつつ(それでも半時間余りは居た筈である)、蕎麦定食…ごはんは余分だつたが、掻き揚げは中々宜しかつた…を平らげ、[きり]を後にした。周章てず騒がず、百メートルも歩かず、次の目的地に着到した。[サドヤ]へ、五年振り二度めの訪問である。

 門を抜けると奥手正面に教會のやうな、左側にはレストランらしい建物があり、どちらも記憶にある。入つて直ぐの右手側にある建物は無かつた…正確には異なる造りの建物だつたと思ふ。中に入ると右側にサドヤ銘の壜がぎつしり並ぶ詰り小賣、正面には受附があり

 「見學の方でしたら、こちらで承りますよ」

聲を掛けてくれた。午后二時からの予約をしてゐる丸太ですと云つて、受附を済ませ、千円の料金を払つた。目を左手にやると、有料試飲の受附、更に奥に卓と椅子が見えた。成る程坐つて味はへるらしい。小賣の葡萄酒を眺めてゐたら

 「二時からの見學の方、こちらへどうぞ」

と呼ばれたのでそつちに向つた。ニューナンブも含め、十人足らず。案内係はやまもと氏といふ男性。ぢやあ早速参りませうと先頭に立つた。[サドヤ]の敷地内に葡萄畑はなく、醸造と貯藏を行つてゐるらしい。ちよつと残念かなと思ひながら、地下に降りた。狭い通路を経て、タイル張りの小さな部屋に導かれたところで、やまもと氏は

 「上を御覧ください。角つこに、タイルが張つてゐない箇所があるでせう」

皆で一斉に首を持ち上げた。確かに穴といふか何といふか、氏の云ふ箇所がある。

 「あすこからこの部屋に、葡萄酒を流し込んでゐたのです」

貯藏庫…といふより、貯藏部屋である。奥にも同じ構造の部屋(但し床の面積はちがふ)があつて、醸造量で使ひ分けたとやら。今は壁の一部しか遺つてゐないから、何かの間違ひで葡萄酒が灌がれても、溺れる心配はしなくてよい。再び通路に出たところで今度は、下の方を見てくださいとやまもと氏が云つた。皆で一斉に首を下げると、ぽつんと狭苦しい穴があけられてゐる。

 「貯藏部屋を掃除する時、ここから中に入りました」

さうだから驚いた。驚いてから、この貯藏部屋が建てられた当時、日本人は今より矮さかつたらうから、その体格なら出入りに差障りはなかつたのかと思ひなほした。さうしたら

 「(見學用の)電球を交換するには、ここから入ります」

電球交換を担当するのはやまもと氏本人で、氏は私より大柄だつたから、改めてびつくりした。かれは柔軟な体の持主と思はれる。それとも腹の出方のちがひか知ら。複雑な気分を抱へて貯藏部屋を出た後、樽と壜の貯藏庫に移つた。ここでいきなり、やまもと氏が

 「葡萄酒にとつて、熟成は必須とは云へないのです」

と云ひ出した。曰く、正しく順序を踏めば、三週間で出荷出來るくらゐにはなる…本当かと思つたが、ヌーヴォ即ち葡萄酒の新酒といふ實例があつた。尤もヌーヴォは"形式としては葡萄酒"と呼べはしても、"価値的に葡萄酒"と云つていいのか、疑念は残るから、氏の言は割引いておくのが宜しい。序でながら、[サドヤ]には結婚式場が併設されてゐるけれど、年に何組かは、樽の貯藏庫を式場に撰ぶさうだ。その年に醸された一本を、十年くらゐ熟成させるサーヴィスがあつたら面白い。結婚生活が熟成するかは別の話として。

 試飲は一種。昨年ヴィンテージのVEIL甲州である。冷し加減の妙を得て、まつたく涼やかな味はひに感心した。上塩梅に冷したお酒に近い。詰り

 「滑かに呑めて、いつの間にやら、膝が崩れる」

やうだなあと呟いたら、やまもと氏はあつさり、一ぺんに一本を干しでもしなければ、平気ですよと切り返した。醉ひにつよい体質なのだらう。折角だから有料の試飲も一ぱい。ミュール シャトーブリアンの赤(ヴィンテージははつきりしない)を六百円で。私好みの落ち着いた感じがする。穏やかで食事を撰ばない余裕がある。好感は抱けたが、けふは甲州種に軍配を上げ、VEILを贖つた。

 

 [サドヤ]を出た。陽は未だたかい。

 「ホテルに隠るのは、些か勿体無いね」

 「然り。併し葡萄酒の壜は置かねばなりますまい」

と話し合つた結果、兎も角も一度東横インに戻り、葡萄酒の壜を冷藏庫に容れ、荷物をかるくした後、甲府城…正確には甲府城址と云ふべきか。甲府市のウェブサイトには、"城跡の一部"が、舞鶴城公園と甲府市歴史公園になつてゐると書いてある…を歩かうといふ段取りになつた。

 築城は天正十年代だから十六世紀末頃、甲斐武田氏が滅んだ直後らしい。武田信虎信玄親子が甲斐國を治めてゐた時期の住ひは躑躅ヶ崎館だつた。一度訪れたが、あすこはお城と呼べる規模ではなかつた。お財布の事情だつたのか、お城を建てるほどの國ではなかつたからか、他國から攻め入られる心配をしてゐなかつた所為か。

 豊臣天下の時期に築城が始り、徳川の代で完成してゐる。縄張りを引いたのがたれかは判然としないけれど、家康が大きく関つてゐたのは間違ひあるまい。秀吉の手でほぼ統一された天下を俯瞰すると

 「甲府は交通の要衝を占めてゐるぢやあないか」

さう気附いたのだらう。私はあの狸親爺を決して好まないけれど、かういふ目配りと念押し(おそらく太閤が没してからのことも政略の内にあつたと思ふ)は、大したものだと云はざるを得ない。ここまで書いたことは、公園を歩き、GRⅢで撮りながら考へた…のではなく、後日に調べた話だから、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏は、私を尊敬しなくとも宜しい。

 城内…園内といふのが正しいか…には芝をひいた広い空間があり、その眞ん中ら辺で、高校生と思しき男子の四人組が坐つてゐる。中のひとりは午后遅い時間帯なのに、お弁当を頬張つてゐる。わかさと食慾が直線で結び附くことくらゐ、判つてはゐても、目にすると驚くより先に呆れて仕舞ふ。芝生の周りには木々があるのだから

 「木蔭に移ればいいのに」

忠告したくなり、お節介な老人のやうだと考へなほした。他にも親子がゐて、をさない兄弟がゐて、仲間聯れがゐて、アベックもゐた。住ひの近くにかういふ場所があるのは、もしかして贅沢なのではないかと思つてゐたら、ゆるゆると陽が落ちかかつてきた。[セレオ]と[成城石井]に立ち寄つて、晩めしと翌朝の買物をしなくてはならない。