昨今の百円(消費税別)均一店では
百円でない商品があり、
季節ものも扱つてゐる、
と知つて、かろく驚いた。
前者は最近、腕時計を三百円で贖つた時。
後者は数日前、通路といふか道路に面した棚に、扇子と団扇が並んだのを見た時。
扇子が幾らくらゐで賣られる物なのかはよく判らない。骨組みと面と留め具、繪柄といふ単純な構成を考へるに、高くなささうな気はするが、単純な構成だから撰択によつては高額になりさうな気もされる。
何年か前、日本画の展示で観た扇繪…確か光琳か乾山だつた…は、何とも雅なものだつた。権利の問題はさて措き、複製品を作るのは六つかしいのか知ら。所藏する美術館が、お土産に用意しても、咜られまいと思ふのだけれど。
複製の扇繪なんて、中途半端な野暮である。と見立てるのも、一方では成り立つ。そもそも繪師たちは扇繪を描くにあたつて、實際にぱちくりぱたぱたされることを考へてゐただらうか。かれらはきつと、扇形といふ特殊なカンバスに適ふ題材や構図を、樂んで撰んだだけにちがひない。
もうひとつ、扇子は長年…冬を越して使ふのか、といふ疑問がある。団扇なら、貧乏長屋のおかみさんが七輪を前に、あちこち破れたのをぱたぱたするイメージが浮ぶが、扇子にその印象はない。一過性といふか、一夏性といふか、身も蓋もなく、季節ごとの使ひ捨て品のやうにも思へる。
それで話が冒頭、百円均一の扇子に戻すと、扇面は骨に貼りつけただけな上に、要の脆さうなのは、流石百円だなあと苦笑が洩れる。併し人前でぱちくりぱたぱた、見せびらかせる出來ではないにせよ、使へなくはない。あふぐ一点に限るなら、百円均一品でも十分ぢやあないか、と考へた。それで買つた。何本か手元に置き、破れ壊れたら、百円ライターのやうに交換すればいいと思つたんだが、かへつて貧で野暮な態度と咜られるか知ら。