暑い季節に入ると、空腹は感じても食慾は感じなくなる。冷し中華や南蛮漬けの類があれば、大体はどうにかなり、甚だ不健全である。だから食事はしつかり摂りませうと話が進めば樂でよく、叉その方向は正しくもあるのだが、私の胃袋はそちらを向いてゐない。こまる。まあ時には空腹と食慾を纏めて感じることもある。念の為に云ふとこれは、"冷し中華でも啜るか"が、"冷し中華を喰はう"に変じた程度のちがひである。健康的とは呼びにくい。
但し麦酒でも葡萄酒でもお酒でも焼酎ハイでも泡盛でも、呑むにあたつて食べるものは欠かさない。呑むのは好きだけれど、決してつよいわけではないから、摘みながらでなくちやあ、きつとへんな具合に醉つてしまふ。こつちは麦酒やお酒そのほかを旨いうまいと悦びたいのだから、惡醉ひは断じて避けたいところである。それで都合のいいのが串もので、近ごろは串焼きの塩を好む。無論自分では焼かない。ほら焼き肉師には天賦の才能が求められるのだとサヴァラン教授も云つてゐたでせう。
ハラミ、鶏皮、信用出來るお店ならレヴァやタンもいい。野菜が慾ければ大蒜や葱や獅子唐が望ましく、なに一ぺんに註文するわけではない。たとへばハラミを二本に葱獅子唐といつた調子。串焼きは焼ケタ出テキタ喰ツタが一ばん旨い。だからぽつぽつ追加するのが本來と思つてゐる。併し串焼きを註文するのは私ひとりではない。四人組あたりにハツとシロとネギマ、それからガツとテツポウを各四本、半分づつタレとシホでなどと註文されたら、こつちの追加が遅れるし、お代りだつて増える。迷惑である。
ゆゑに。混雑次第では自衛…用心の為、何本かの盛合せを註文することがある。おまかせといふやつだが、大体は決つてゐる。変り種を好まない私にとつて具合がいい。それに何本かの串はこちらの草臥れた胃袋を、そこそこ満たしてくれもする。あとは豆腐でもあれば十分なお摘みである。尤もそれはこつちの都合であつて、大将が店の奥で顔を顰めてゐるかも知れないが、その顔つきは判らなければ顰めてゐないのと同じであらう。
それより問題は串が纏めて出ると冷めてしまふ点にある。さつさと食べれば済むと云ふのは短慮の謗りを免れない。啖ふのは禽獸の仕業だとサヴァラン教授も云つたとほり、味はふのが飲み助にあらほましい態度であらう。さうすると焼ケタ出テキタ喰ツタが出來にくい盛合せに、些かの物足りなさを感じる。感じつつ思ふに串の盛合せは
「つくねは譲るから、ささみは寄越し玉へ」
「ネギマは半分こしませう」
などやり取りするのも味の一部であつた。やり取りの相手がお酒を心得た(妙齢の)女性…貴女のことです…であれば云ふことはなく、焼ケタ出テキタを直ぐ喰へるし、暑さにだら助となる心配も失せる。