閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

1110 本の話~大人の参考書

『東京煮込み横丁評判記』

坂崎重盛/光文社知恵の森文庫

 うまい煮込みのある店はいい呑み屋。

 いい呑み屋がある町は愛おしい町。

 と考へる筆者が、東京の主に東側を呑み歩きながら書いた一冊。呑み歩き、且つ書いた時期は平成十八年から廿年にかけて(文庫化されたのは平成廿二年)だから、所謂ガイドブックとしては使へない。簡単な地図や電話番號を記し、一覧まで作つてあるけれど(親切な編輯である)、お店が残つてゐるか判らないし、残つてゐたとして、移転してゐたり、屋號が変つてゐたり、代替りしてゐる可能性もある。大きにある。正直に云つて、この本に載つてゐるお店に、私は一軒も足を運んだことがない。

 

 併しガイドブック的な要素は、元々大した比率を占めてはゐないから、安心していい。下町場末をうろつき、一見客のフリで暖簾をくぐり、麦酒(大)にポテトサラド、もつの串焼き。時にワインを呑み、チョリソーやコロッケ、カキフライに舌鼓を打つ。煮込みを註文する筈なのに、時々忘れてしまふこともある。さういふ小父さんの姿を面白がれる。ほら小さな呑み屋の卓で喋つてゐる、知らないお客の會話が、妙に面白く聞こえることがあるでせう。あれとおんなし。こつそり、くすくす笑へばよろしい。さういふ本である。

 

 とは云ふものの。淺草でも立石でも三ノ輪でも、筆者は必ず梯子酒をする。聯載の都合なのかと思ひ、いやそつちの事情も少しはあるのだらうが、少年期青年期に培はれた場末好みを、じつくり煮込んだ結果なのだらうと思ひなほした。率直なところ、眞似出來る歩き方ではない。文章は私の好みからすると、軽薄に感じられる箇所が散見されるし、微かな厭みも感じなくはないけれど、"タフでディープ"な土地柄への愛着が、瑕瑾を覆ひ尽してゐる。飲み助の後輩である我われは、この一冊を参考に"おんなし呑み屋"ではなく、愛着のある町を歩かうではありませんか。