閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

1111 素麺に就て

 夏といへば素麺で、素麺といへば、『檀流クッキング』の藥味のくだりを思ひだす。ちつと長くなりますが、引用しますよ。

 

 薬味のサラシネギは誰でもつくる。ゴマを煎って、叩きゴマか、半ずりのゴマにしておくならば、薬味は二品ということになるだろう。

 いや、シイタケを二つばかりきばって、よくもどし、そのモドシ汁ごと、ソーメンのツユの中に入れて煮ておいて、やがてそのシイタケをせんに切るならば、ソーメンの薬味は、遂に三品ということになる。

 もう一品、鶏の挽肉を百グラムきばって、ソーメンのツユを煮上げたついでに、そのツユを少しく手鍋に取り、挽肉を入れ、いりつけるようにして一煮立てして、すくい取るならば、薬味は遂に四品となる。

 唯今、鶏の挽肉をすくいあげたが、そのあとに濃厚なダシが残るだろう。そこでナスをせんに切り、水によくさらして、充分にアクを抜いてから、その濃厚なダシで、煮付けるならば、薬味は堂々五品になる。

 

 文章の快さがリズムにあるならその好例と思へるし、そのリズムが實際的な点を思ふと、空前ではなからうかと云ひたくなる。叉この四つの段落を、四聯の詩と見立てても、批判と疑念が呈せられるのは兎も角、非難まではされまい。實はこの後、サラダ油かゴマ油で炒り卵を作り、ことの序でに大根をおろせば、六品め七品めの藥味が出來ると續けて

 

 ソーメンをすする時にも、さまざまの副菜を用意して、ソーメンのツユに浮べたら、たのしくもあり、ゆたかな感じになり、夏バテを防げるということだ。

 

説得力があるなあ。ことに"ゆたかな感じになり"の箇所がいい。たかが素麺ぢやあないか、とは云へなくなる。尤も私はここまで手を掛けない。マーケットで賣つてゐる刻み葱、チューブ入りの生姜や大根おろしが精々。たまにその葱と梅干しをあはせて叩くくらゐはする。或は"山形のだし"を麺つゆに混ぜる。かう書くと檀から

 

 手順さえよろしくやれば、十分か十五分の奮闘ですむことだ。

 

と咜られさうだ。私が"十分か十五分の奮闘"を厭ふ不精なのは認めるとして、食の細い獨居人が様々副菜を用意しても、食べきれない事情だつてあるんです。

 いや確かに、檀が挙げた藥味を、素麺に限つて使ふのは勿体無い。豆腐に乗せてよろしからうし、鯵や烏賊のフライに添へるのもいいでせう。"せんに切つたシイタケ"だの、"せんに切"つた茄子と、"いりつけるようにして一煮立てして、すくい取"つた鶏の挽肉なら、そのままお摘みにもなる。

 そこで改めて問題になるのが、使ひ切れるかどうか。毎日こまこま料理をするなら、何といふこともなからうが、繰返すと不精な男である私にとつて、それはかなりの難題に属する。何しろ『檀流クッキング』で紹介される料理は、家庭で食事を作るひと、お客を招くひと向けの色が濃い。さういふ目的の聯載だつたから、文句を云ふ筋合ひではない。讀んだこちらが"手順さえよろしく"、分量なり何なりを工夫して進めるのが本來である。反省してゐます。それで反省しつつ、これから素麺をうがかうと思ふ。