尊敬する内田百閒は麦酒が大好きなひとだつた。何でも祖母から、訓戒として、一人前になるまでお酒…ここでは日本酒の意…を呑んではいけませんと云はれたから、代りに麦酒を覚えたのだといふ。簡単に註釈を附けると、内田家は元々造り酒屋だつたが、父親の代で潰れてしまつた。百閒先生の祖母は、それを目の当りにしてゐたから、溺愛する孫にその轍を踏ませたくなかつたのだらう。尤もその孫は後に大酒呑みとなつたけれど、そつちは措いて、百閒先生は恵比寿の壜詰めを好んださうだ。
「壜詰めなら味が変らない」
といふのが理由。一体このひとには、普段の呑み喰ひの味が大きく変るのを厭ふ癖があつた。樽詰めのお酒を送られた時も、美味いことは美味いけれど、普段の味とちがふから(自分で誂へるのが面倒でもある)とか何とかで、料理用にまはしたといふから、一貫した態度なのは間違ひない。但し先生を尊敬する身としては云ひにくいけれど、眞似をしたいとは思へない。
もうひとつ、同意を示しにくいと思つてゐたのが、麦酒は冬の方が、味が引き締つてうまいといふ説。初めて讀んだ時は、冬だつて旨いけど、夏に呑んでうまいのが、麦酒ぢやあないかと、反發…いや疑念を感じたのは忘れ難い。と、ここまで書いて、"同意を示しにくいと思つてゐた"が過去形である点に注意してもらひませう。詰り夏の麦酒には弱点があることに、やつと気がついたので、その弱点は何かと云へば、暑さそれ自体である。
「間の抜けた話をしてはならん」
さう云はれさうだが、暑いと麦酒は直ぐぬるむ。世界には常温で呑む麦酒があるのは知つてゐる。併し日本の麦酒は冷して呑むのが原則で、冷して呑むのが原則の麦酒がぬるむと、麦酒はただの苦い炭酸水に…要はまづくなる。そしてぬるんでまづくなつた麦酒ほど、腹立たしい飲みものはなく、夏の麦酒には、さうなる可能性がある。高い。とても高い。我らが百閒先生の時代、電氣冷藏庫がどの程度に出回つてゐたかは知らないけれど、折角の冷たい麦酒がぬるまつて、顔を顰めた経験が何度もあつたのだと思ふ。まして腹立たしさを通り越し、兎にも角にも秋を望むのが精一杯な令和の夏の暑さに、麦酒が冷たさを保てるものか。といふことがやうやく、理解…實感出來た。素早く注いで素早く呑み干せば、その素早い間だけはうまいが、壜詰め罐入りを樂みたい時には、慌ただしすぎる。
冬麦酒の引き締り具合は、寒風が吹き出してから、確めるといたしませう。