閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

1123 冷静

 暫く、呑んでゐない。

 呑み屋に足を運んでゐない、程度の意味。

 あまりに暑いから、外に出るのは控へ、止む事を得ず、出掛けたとしても、用件が終り次第、速やかに帰宅する生活だもの、当然の結果である。

 陋屋では、呑みますよ…罐麦酒の二本か三本を、呑むと云つてよければ。

 呑み屋好みの丸太が、我慢出來るものかねえと、首を傾げる讀者諸嬢諸氏もをられるでせうね。

 麦酒の壜と焼酎ハイを満たしたグラス、もつ煮や唐揚げや串焼き、それから實のない會話と賑かな笑ひ聲を、思ひ浮べると、確かにあの場が恋しくなる。

 行けば行つたで、調子に乗つて過して、宿醉ふに決つてゐるんだから、無いものねだりの心境なのかと思ふ。

 

 この時期、一ぱい引つかけるなら、所用で出掛けた帰路にある呑み屋がいい。私の場合、所用と通勤はほぼ、同じ意味だから、狙ひはその経路に限られる。目星は二軒。気張つて一驛、足を延ばせば、二軒か三軒、あては増えるが、あてが増えるのは、迷ひの種でもある。あちこち歩くのだつて面倒だから、最初の目星に絞らう。

 それで過日、のこのこ出掛けた…のではなく、早上りの仕事終り、最寄驛近くの呑み屋に立ち寄つた。暑さと湿気にうんざりしながら入ると、時間帯にしては混んでゐた。少し驚いたが、繁盛してゐるなら、芽出度いと云はなくちやあねるまい。さて何から呑みませうかね。

 「ひと先づ、生麦酒をください」

と云つた。銘柄は黒ラベル。この呑み屋は判つてゐるから、壜の赤星もあるんだが、他のお客の註文が混雑して、お摘みが出るのに、時間が掛つたらいやだなあと思つた。呑みながら待つのは、厭はないにしても、世の中でぬるまつた壜麦酒ほど、まづい飲みものはない。一緒にハムカツと塩キヤベツを頼んだ。塩キヤベツなら比較的、早めに出てくるし、ゆるゆる摘めもする。この後の註文で待たされても、大丈夫だらうと考へての判断で、醉ふ前だから、冷静である。

 先客は男性の二人組、女性の二人組、小父さんがひとり。私の常席を占めたその女性二人組が、まことに賑かだつた。賑かなのは、かまはない。尤も座つたまま、ビデオ通話と呼ぶのか、あれを始めたのには驚いた。素面らしい相手に、お晝過ぎから呑んでるのよ、とか云つてゐた。そんな電話をされたら、腹立たしくなるだらうにと、塩キヤベツを摘みながら、相手に同情してゐたら、ハムカツが出てきた。

 辛子を塗つて、そこにウスターソースをたつぷり。ハムカツはかくあるべし、と重々しい気分になつた。一人で呑んでゐる小父さんは、ホッピー(黑)と、玉子焼(明太子マヨネィーズ添へ)を、てきぱきした口調で註文した。きつとてきぱきと呑み、てきぱき食べるのだと思つた。もう一組からは、いかにも愉快さうな笑ひ聲がするだけで、何がどう愉快かまでは想像出來かね…いやこんな風に書いたら

 「丸太てえ野郎は、呑み屋で、他所の様子を窺ひ、會話に耳を傾けるのか」

などと眉を顰められる不安を感じる。あわてて念を押すと、わざわざ窺ふわけではありませんよ。そこまで惡趣味ぢやあない。併し小さな呑み屋で、大きな聲が響いたなら、否応もなく、聞こえるのは、仕方がないでせう。まあ、興味がないとは、云はないし、秘かな樂みでもあるけれど。

 云ひわけをするうち、麦酒を干してゐた。ハムカツも平らげてゐた。私の席に座つてゐた女性二人組が、御勘定を済ましたから、お店の大将に断つて、席を移つた。移りついでにホッピー(白)と、串焼きの六本盛り(全部、塩)を註文した。塩キヤベツの残りを摘む間に、男性の二人組も、てきぱき小父さんも御勘定を済ましてゐた。

 ホッピーは、セットの後に中身…要は甲類焼酎…を二回、お代りする。それくらゐで(私にとつては)、丁度よい。うまいのかと訊かれたら、何とも六つかしい。使ふ焼酎で、味はひが変る、と耳にした記憶はあつても、異なる銘柄の呑みつくらは経験がない。よくも惡くも、癖を感じないから、お摘みを撰ばないのは確かで、目の前に來た串六本盛りも叉、ホッピーに似合ふ。

 順繰りに噛み毟りながら、中をお代り。このお店では、追加の焼酎を、小さなコップで出すのが普通の筈なのに、私が註文すると、ジョッキを引いて、そこにざぶりと注いでくれる。他のお客相手はどうだか知らないが、特別扱ひされてゐると、都合よく解釈するのが、この場合はよろしい。どうも冷静ではなくなつてきたらしい。

 串の残り、塩キヤベツの残り、ホッピーの残り、醉ひ具合で目算を立て、鶏皮ぽん酢を註文した。熱い皮の獨特の歯応へに、ぽん酢の冷たさと、葱の歯触りが相俟つて、好もしい小鉢。中のお代りを頼み、案配よく綺麗に平らげた。酒精とお摘みを案配よく呑みきり、且つ食べきれたから、気分よく御勘定を済ますことが出來た。冷静を失つてはゐなかつたやうで、おれは流石だなあと思つた。

 

 帰宅した後、手帖を捲つたら、前回このお店に寄つたのが水無月に遡ると判つたから、ちよつと驚いた。