鶏肉の料理は大体の場合、うまいと思つて間違ひない。
唐揚げは勿論、各種の焼き鳥、ソテー、厚揚げや隠元豆と炊合せたのも叉うまい。塩胡椒。甘辛いたれや。大蒜と葱、大根おろし。様々の組合せでうまい。
ただここで、殆ど唯一とみていい例外がある。勿体振らずに名を挙げれば、チキンカツがそれで、かう書くと、チキンカツの熱烈な愛好家は、髪を逆立てるだらうか。とは云へ、熱烈なチキンカツ愛好家の姿を、思ひうかべるのは、正直なところ、六つかしい。
愛好家の見立てはさて措き、数ある鶏肉料理の中で、チキンカツが見劣る(と感じられる)のは、不思議に思ふ。揚げるのが適はない筈はない。たとへば酢鶏、或はチキン南蛮に入つてゐる揚げ鶏は、まつたくうまい…と書いて、気がついたことがある。唐揚げ、酢鶏、チキン南蛮にはどれも、肉に多少の湿り気があり、チキンカツにはそれがない。もしかしてこのちがひ、鶏肉にとつては大きいんではなからうか。
簡単に云ふと、カットレットといふ調理法は、鶏肉のぱさぱさした感じを、惡く強調する所為ではないかと思ふ。こんなことを云つたら、ウスターソースで潤びるぢやあないか、と反論されさうであるが、ウスターソースが潤びらすのは、衣の部分に過ぎず、潤びた衣と鶏肉のぱさついた感じが、似合ふとは云ひにくい。要するにカットレット…ディープ・フライとの相性は、宜しくなささうだ。
ここでカットレット…カツに目を向けると、明治期の日本で成り立つた調理法である。シュニッツェルのやうな揚げ焼きと、江戸期以來の天麩羅が混淆した手法と見ていい。そこに解禁された肉食が加はり…どうやら最初は牛肉だつたらしい。内田百閒の随筆に、友人と聯れ立つて、ビフカツの一皿を、何故かソーダ水で平らげるくだりがあつた。ソーダ水は横に措きつつ、旨さうだつたな。
カツはそこから、豚鶏と拡がつたさうで、カツ史を俯瞰するに、比較的新しいことになる。鳥は兎も角、鶏を食べる習慣が淺かつた…念の為に云ふと、明治以前、食用としての鶏は、随分と格がひくかつた…からだらうか。
「吉列(とはカットレットにあてられた漢字)が、人気らしい。陛下も肉を召し上がるさうだし(明治帝は、朕ハ肉ヲ啖フとか詔を出した)、何はともあれ、肉を揚げてしまへ」
料理屋から洋食屋に転じた親仁が、さう考へたかどうかは知らないが、兎にも角にも、揚げ肉を試したにちがひなく、その中に鶏が入るのが、牛や豚に較べて遅れたのだらう。技術的には、牛カツや豚カツからの転用と想像出來る。ここで洋食屋の親仁たちは、衣をつけたディープ・フライが、肉の歯触りや舌触り…詰り味はひを大きく変へてしまふと、見落したか、気づかなかつたのではないかと思はれる。
併し、チキンカツがまづいかといふと、必ずしもさうとは限らない。鶏肉料理の中で、格が落ちるのと、うまいまづいは、まつたく別と、我われは改めて理解しておかう。
さて。ではどんな風に食べませうか。
眞つ先に浮んだのは、カレーライスとの組合せである。カツカレーなら、とんかつに決つてゐると云はれさうだが、チキンカツの淡泊の方が、私には好もしい。
續いてはサンドウィッチが浮ぶ。この場合、チキンカツ単獨ではなく、分厚く切つたトマトのサポートが慾しい。鶏肉とトマトは、出合ひと云つていいものね。
チキンカツ単獨なら、どうしませう。
ここが六つかしい。梅肉や大葉を挟み込み、大根おろしと青葱とぽん酢をソース代りにするとか、挟むのをチーズにして、茸を入れた熱いデミグラスソースでやつつけるとか、考へられるけれど、さてそれが、チキンカツじたいを樂める食べ方かどうか。梅肉やチーズやデミグラスソースを、美味しく食べる材料ではないかと思へもする。であれば、"じたいが美味い"のは、他の鶏肉料理に任せてしまひ、相性のよいソースだの、組合せだのを探す方が、賢明かも知れない。
案外、串揚げ風に仕立て、とろりとしたウスターソースをたつぷりかけるのが、一ばん似合ひなのだらうか。