閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

1149 非常に微妙な位置の焼賣

 偶に食べたくはなるが、直き忘れてしまふ食べものに、焼賣がある。まづくはない、といふより、食べればうまいと思ふ。併しけふは、何がなんでも焼賣を食べなくちやあ、おれの腹が収まらない、とまでは感じない。餃子が相手なら、さうはゆかないのに。何か理由があるのか知らと首を捻るに

 「焼賣はいつ、どこで食べても、焼賣だから」

でないかとの考へが浮んだ。厚めの皮に、挽肉をみつちり詰めて蒸したのを、酢醤油と辛子でやつつけるのが、焼賣の基本で、札幌でも那覇でも事情は変るまい。好意的に見れば

 「全國津々浦々、安定して」

食べられることになるが、飛び抜けて美味い焼賣に会へる機會は、さほど多くなささうでもある。何年か前、気紛れで訪ねた宇都宮で、目に入つた餃子屋を三軒か四軒、立て續けに巡り、焼き餃子と水餃子を一人前づつ食べ歩いたが、それぞれにちがひがあつて面白かつた。焼賣で同じ樂みが出來るかと云ふと、六つかしさうに思はれる。そこで

 「焼賣は全國津々浦々、いつ、どこで食べても、安定してはゐるが、何と組合せればいいか、曖昧ぢやあないか」

と云はざるを得なくなる。(焼き)餃子だつたら、麦酒や焼酎(ハイ)は勿論、ごはんのお供にも宜しい。では焼賣を前に、麦酒や焼酎(ハイ)、或はごはんをあはせたくなるか知ら。餃子を差し置いて、とはならないだらう。かと云つて、焼賣だけを食べるのも、何といふか色気がない。

 そんなら、世の中から焼賣の姿が失せても、支障は出ませんか、と訊かれたら

 「それはそれで、ちとこまりさうだ」

ひらがなで、さう応じざるを得ない気分もある。どうやらあの食べものは、私の中で、非常に微妙な位置を占めてゐるらしく…これは褒め言葉になるのか知ら。