閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

1151 なんともかともの蛸

 考へてみたら、蛸を喜んで食べるのは、妙な習慣ではないだらうか。早鮓の種やお刺身で目にするなら兎も角、水族館で見る蛸の姿を見て

 「ああ。こいつは旨さうだ」

と感じるものか知ら。そんなことを云ひだしたら、烏賊や鮪や鯖だつて、同じなんだらうけれど。

 人生で最初に食べた蛸は、たこ焼きだつたと思ふ。何を切つ掛けに、いつ、どこで、口にしたのかは、さつぱり覚えてゐない。なので

 「たこは、おいしい」

と感じたかどうかも、解らない。当然である。

 その後…前後かも知れない…が、若布との酢のもの。これはうまかつた、と思ふ。但しそれは酢のうまさで、蛸は歯触り担当だつた可能性も考へられる。

 思ひだしたから、書いておく。何年か…多分十年以上前、醉つてふらりと入つた呑み屋で摘んだ、蛸の胡瓜の酢のものが、えらく旨かつたのを覚えてゐる。銘柄を忘れた濁り酒とあはせた筈で…いや併しあれも、胡瓜がうまかつたのかも知れず、機會を作つて、確めねばなるまい。

 ちよつと待てよ。序でに書いて投げ出す積りだつたがこれは、積極的にうまいと思つた酢のものでさへ

 「蛸の味はひが、エエなあ」

とは感じなかつたことを示してゐる…などと云つたら、熱心な蛸愛好家から、咜られるかも知れない。さういふ不安を感じつつ、それでも蛸は嚙んだ時の感触と、どうかしたら鼻を抜ける匂ひがすべて、ではなくても大部分を占めると思ふですと、ささやかではあつても、主張しておきたい。

 ここで念を押すと、蛸の歯触りは、硬いんだか軟らかいんだか、烏賊とも蒟蒻とも蒲鉾とも、異なつてゐて、尊敬する吉田健一風に云ふと

 「なんともかとも、蛸を喰つてゐる気分」

になる。あのぐにやぐにやした、奇怪な吸盤を持つ生きものを好むのは、瀬戸内人と地中海人らしい。ありふれた収獲だつたからだらうが、"喰つてゐる気分"を満たしたのも、大きかつたにちがひない。

 さういふことを考へたのは、スマートフォンに溜め込んでゐる画像を振り返つてゐたら、いつだつたかに食べた、蛸の唐揚げを見つけたからである。中々にうまいもので、場合によつては、鶏の唐揚げより、満足を感じることもある。尤もこれに主役を任すのではなく、麦酒や焼酎ハイと共に空腹を満たし、さて呑みませうかとなるから、巨きな露払ひと云つてもいい。この辺りも叉、なんともかとも、蛸だなあ、と云ひたくなる一因だらうかと思ふ。