閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

1152 念を押すまでもない串焼き

 呑む時はお摘みを欠かさない。呑むだけ呑んで、えらい目にあつたことが、何度か(或は何度も)あつた。痛い目にあつて、ひとは少しづつ成長するんです。

 併しお腹がふくれてくると、鶏の唐揚げだの、お刺身の三点盛合せだの、摘みたくなくなる。かういふ場合、お任せではない串ものを何本か、註文することにしてゐる。

 「さうまでして、摘みたいものですかねえ」

といふ疑念は解る。その疑念に就て、理解を示さうとは思ふが、これは失敗から學び、身に染みついた経験則である。今さらどうにもならない。

 ではさて、そこで何を註文するのが、丁度いいのか。

 「考へるのは、面倒ぢやあないか」

と云はれるかも知れない。そこでキャリアがものを云ふ。ベテランなら徳利を置き、お漬ものや酒盗辺りを配すだらう。いいねえ。藥師如來さまに侍する、日光月光の両菩薩のやうな風情…と云つたら、たれに咜られるだらうか。

 そこまではゆかなくたつて、鶏皮のぽん酢和へに、お豆腐なんぞも好もしい。要は濃いめと淡泊の組合せが、こつであるらしく…私の安定した組合せは、ハラミと獅子唐の串焼きにおほむね、落ち着いてゐる。理窟があつてではなく、何度も呑み食べ試して、身に染みついた経験則である。

 ハラミはたれ、獅子唐は塩の組合せの方が、本來望ましいんだが、串焼きに関してはここ暫く、塩に夢中なんである。こつちも理窟があつての話ではなく、年齢を経て起きる、嗜好の緩かな変化だらうと思つてゐる。それでこの夜のハラミも、塩で焼いてもらつた。綺麗に呑みきつて、食べきつて、御勘定を済ましたのは、念を押すまでもない。