閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

1164 小腹が減つたら先づもつ煮

 外題の通りである。

 それ以外ではない。

 大体の呑み屋にあつて、大体の呑み屋では、巨きなお鍋でくつくつ煮てある。詰り待たなくていい。肌寒さを感じる夕刻、ちよいと腹が減つたなあと思つた時、こんなに有難いお摘みも、中々見当らない。

 臓物を煮込むといふ發想は、どこから湧いたものか。

 火を扱ひだし、烹る手段を得た、太古の御先祖が、防腐と保存と味つけを兼ねる、絶好の方法と気がついて、狂喜しただらうとは、想像に難くない。だつたら何故、我が國でその調理法が發展しなかつたのか、と云ひたくなるが、こつちは稲作に駆逐されたと考へたら、一応の納得はゆく。同じ面積なら、牧畜と米ぢやあ、養へる数が丸でちがふもの。

 

 (妄想ひとつ。大和政権が、越以北に稲作を押しつけず、地域に適つた産業…漁撈でも牧畜でも…を推し進めてゐたら、我われの食卓はどうなつてゐただらう。少くとも肉食の面では、塩漬けや味噌漬けが、大きく拡がつた筈だし、醍醐…チーズの遠縁の親戚くらゐか…から、乳製品も日本式に發達しただらうと思ふ。さういふ"if"をたれか書かないか知ら)

 

 尊敬する檀一雄は、臓物が大の好物だつた。『檀流クッキング』でも、『美味放浪記』でも、微笑が洩れるほどの情熱で、その美味しさを書き聯ねてゐるから。気になるひとは御一讀あれ。ひどく空腹になるのは私が請け合ふ。

 文學のちからは措かう。臓物に就て書く檀は度々、"日本人は清潔な肉を食べるのに夢中で、肝腎…文字通りの肝と腎を指してゐる…な箇所がうまいのを知らない"と嘆いてゐた。半世紀くらゐ前の嘆きだから、その辺の差引きは必要だらうと思ふが、もつの格のひくさは、令和でも変るまい。

 流行したもつ鍋でも、"朝に捌いた新鮮な"もつを使つてゐます、と謳ふことが少からずあつたでせう。檀の嘆いた"新鮮で清潔な肉"への執着が、臓物にまで及んでゐるのだな。血を穢レと極端に忌んだ感覚…その辺を踏まへれば、上の括弧書きは、成り立ちさうにない…の残滓と見ていい。

 さういふ見立ては兎も角、現代の臓物相手なら、捌きたてに拘泥しなくてもかまはない。一端の呑み屋が、お客に出せないものを仕入れる心配はあるまいし、マーケットの精肉賣場でもそれは同じである。

 味噌でも醤油でも、たつぷり火を通した臓物。

 大根。

 牛蒡。

 人参。

 蒟蒻。

 厚揚げ。

 そこに鶉玉子が入ればまづ上等。小鉢に盛つて、湯気の立つところに、刻んだ白葱は勿論どつさり。臓物の脂つこさと熱いのを、白葱で受けとめて一口、二口。この場合、お箸ではなく、木の匙で掬ふのが望ましいと思ふ。熱さも湯気も、何もかもが渾然とした…要するに、もつ煮と呼ぶしかない味が、空腹に沁みてくるのが、旨く嬉しく快い。何を呑むかといふなら、麦酒、焼酎ハイ。ホッピーも叉よろしい。小腹を満たしつつ、お品書きを見て、串焼きや串揚げ、或はポテトサラドだつたり、焼魚だつたり、お摘みを考へ撰ぶと、夜の始まりが實感されてくる。