閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

1165 優柔不断な態度と串焼き

 

 またぞろその話か、とうんざりする讀者諸嬢諸氏も少くなからうが、こちらは飽きない。だから仕方がない。

 即ち串焼き。

 画像は馴染んだ(筈の)呑み屋で出す、おまかせの六本盛。たれと塩を三本づつが、本來の出し方。ここの呑み屋は融通がきくから、私は全部、塩で焼いてもらつてゐる。

 大体は満足。但しつくねは余り好みでないし、野菜の串が慾しい気もする。まあそんなら、盛合せではなく、一本ごとに註文すれば済む話、ではある。

 仮に(大将の手間にはこの際、目を瞑るとして)この六本盛が、"おまかせ"でなく、"おこのみ"ならどうだらう。

 ハラミを二本。

 鶏皮は一本。

 葱と獅子唐で各一本。

 計五本となり、さて最後の一本が悩ましい。レヴァかタンか若鶏か大蒜。葱と獅子唐のどちらかを削り、一種二本叉は二種二本の追加にする方法もある。然もたれ塩だけでなく、味噌も撰べるから…仮定の品書きなのは判つてゐるのに、熱中してしまふ。

 これがお刺身の盛合せなら、鮪の赤身、鰤、鯵(たたき)、鯖(酢〆)、烏賊、甘海老と、まつたくなだらかに決まる。おでんに目を移しても、大根、玉子、厚揚げ、牛すぢ、薩摩揚げに結び蒟蒻が、すつと浮んでくる。串焼きの優柔不断が、何とも不思議な気分にならざるを得ない。

 併し。我が身を振り返れば、優柔不断な態度こそが、デフォルトである。であれば、不思議な気分になる方が、をかしいことになる。そこで思ふに、串焼きには所謂"定番"がないか、あつても非常に少いのが、私をして、デフォルトの優柔不断にさせる…と思はれる。

 念を押すと"定番"を私は、"安定してうまい"の意味で、使つてゐる。時間と舌の撰択と洗練を経て、成り立つた食べものや食べ方、或はその味。かう云つたら、苦笑ひを浮べるひともゐるかと思ふけれど、鮪の赤身だの、おでんの大根や玉子だのに、さういふ過程があつたのは疑念の余地がない。

 串焼きの種に目を向けると、どうも今の時点で、撰択と洗練の過程が終つてゐないらしい。すりやあ丸太の中での話だらうと云はれたら、さうかも知れないけれど、だつたらハラミ、レヴァ、タン、ハツ、シロ、コブクロ、ミノにセンマイにネギマ、若鶏、鶏皮、葱、獅子唐、大蒜、その他、諸々から、"定番"に相応しい種を撰ばうとしたなら、収拾のつかない激論になるとは、容易な想像ではあるまいか。

 尤もそれを、だから、惡いのだと断じては、方向を間違つてしまふ。"定番"が成り立つまでには、多くの舌と長い時間を要する。これをもつと簡単に、定番を伝統、或は歴史と呼びかへてもいい。我われが一ぱい、もしかすると二はいか三杯も引つかけつつ、串焼きを摘む時、歴史…伝統…定番を作つてゐると考へれば、六本盛が"おこのみ"だつたら、何を撰ばうと頭を捻る優柔不断も、役に立つと云ふものだ。