閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

1168 忘れ難い試合の話

 令和三年彌生三日。

 日本武道館

 スターダム、ワンダー・オブ・スターダム選手権 兼 髪切りマッチ。

 王者 ジュリア対挑戰者 中野たむ

 

 プロレスラーの格を考へる時、敗けて画になるかどうか、といふのは、ひとつの條件になりさうな気がする。男性レスラーから探せば、晩年の三沢光晴や、最近の丸藤正道(三沢の弟子筋である)の名前が浮ぶ。正反対の例が多いのは勿論で、ジャイアント馬場の名前を挙げれば、話は済むでせう。

 女子に目を向けると、敗けて画になりさうな撰手の名前は更に少なくなる。そこには私が女子プロレスをよく知らない事情も少からずあるのだが、ジュリアくらゐしか浮ばないのが、正直なところである。

 理由を考へるに、女子レスラーには、イコン…アイドルであることを、(強く)求められてゐるからではなからうか。ぢやあ何故さうなのかと訊かれたら、それがビューティー・ペア以來、日本の女子プロレスの伝統だからでせう(多分)と、応じるしかないけれども。

 

 プロレスは鍛へに鍛へた肉体で見せる、格闘とエンタテインメントである。

 

 仮にさういふものとして、レスラーは格闘者であると同時に、演技者であることも要求される。詰らなく勝つなら、鮮やかに敗ける方が望ましい場合もあつて、さういふ試合をやつてのける、数少い女子レスラーが、ジュリアだらうと、私は思つてゐる。対する中野たむは徹頭徹尾、現代風のアイドルを演じてゐて、リング上でのキャラクタは丸でちがふ。

 にも関らず、この一戰、ふたりの動きは呆れるくらゐ、嚙みあつてゐた。花やか好みのスターダムの中、シビアな展開でお客にアピール出來たのは、ジュリアといふプロレスラーの力ゆゑ(たむも厳しい試合は出來るが、彼女が軸になつた場合、その激しさの分、シビアさの度合ひは減少する)だつたと思へる。

 この稿を書いてゐる今、スターダムに所属する、シビアを見せられるプロレスラーは、朱里と舞華にならう。彼女たちは、私の大好きなプロレスラーでもあるが、この二人に不足して、ジュリアには濃厚な資質が、受ける姿…抽象的な意味ではなく…を、"観客に見られてゐる"と感じるセンサーのやうな部分、或はその鋭敏さではなからうか。

 

 そのひとつの顕れに、後半の張り手の打ち合ひを挙げて、強い反論はされないと思ふ。いや張り手と呼ぶより、掌で殴り合ふやうな二分余り。ジュリアは遂に後ろ手を組み、聯續する打撃を受ける。腹の括り方が恰好いい。張り返された中野たむの歯を食ひしばる様もよく、小橋建太佐々木健介のチョップ祭りが、思ひ起される気がした。

 試合はこの後、たむがスピンキックの聯打、ファルコンアローの体勢から垂直落下に落とし、最後にトワイライト・ドリームで三カウントを取り、ジュリアからワンダーのベルトと髪を奪つた。格闘技の視点ねら、たむの勝ちである。但しこれはプロレスの、それもタイトルだけでなく、髪を賭けた試合であつた。試合後、マイクを握つたたむが云ふ。

 「やうやく、あんたに勝てた。もう他に何もいらない…髪なんか切らなくていい」

 「全部を賭けて私は敗けた…耻、かかせんな」

 アイドルの立場を通した中野たむに対し、ジュリアの切り返しは鮮やかでお美事。純然とした格闘技なら、勝つたたむが総取りだが、プロレスであれば、さうなるとは限らない。贔屓を自覚しながら見立てると、たむが相手だから成り立つた試合の点も含め、六分四分でジュリアに軍配を上げたくなる。敗けて画になるとは、かういふことなのだな、きつと。