閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

1171 何年かに一度のライカM1

 ライツ社はライカⅢcを出すにあたつて、Ⅱ/Ⅰの簡易版を出した。多少廉な機種を用意することで、間口を広げる積りだつたのだらう。Ⅲfで一応の終りを迎へたねぢマウントから、バヨネット・マウントに変更した初號機に、M3の型番を当て嵌めたのは、最初から2と1の簡易版を出す算段があつたからで、實際にライツはM2/M1を出してきた。尤もM2が簡易版だつたかと云ふと、首を傾げたくなるが、五十ミリを基準に考へたら、M3が最上位になるのだらう。と考へた後、この稿では併し、M3でもM2でもなくM1を話題にする。この機種は、ねぢマウント時代も含めたライカ史を俯瞰した時、かなり特異な位置を占めてゐる。

 ごく簡単に云つて、M2から聯動距離計を省いたのが、M1である。従つて目測。距離計の窓に蓋をして、そこにM1の型番を刻んでゐる。但しファインダはあり、ブライトフレイム(卅五ミリと五十ミリ)も載せてある。系列のご先祖であるⅠc/Ⅰf/Ⅰgでは、距離計もファインダも省略してゐたことを思ふと、先づこの点が特異と云へる。寧ろ更に遡つたスタンダード型(或はⅠ型のCタイプ)に近しい。もうひとつ、M1はライツで、M2への改造を引き受けてゐた。一聯のMバヨネット・マウント機で、上位機への改造を公式に受けたのは、M1のみであつて、これも叉、この機種の特異さと云へる。

 發賣は昭和卅四年。ニコンFと同年。詰り冩眞機が、一眼レフへと大きく舵を切つた最初期、ライカが最盛期から、緩かに下り坂へ向はうとした時期でもある。尤もライツ社に、さういふ感覚は無かつたか、あつたとしても稀薄だつたと思ふ。でもなければ

 「ひと先づ廉なこちらをどうぞ。安心なさい、いつだつてM2に出來ますからね」

M1をサービス品のやうな仕様で出さうとは考へなかつたにちがひない。尤もそれで賣れたかどうか。甚だ怪しい。五年ほどの製造期間で、九千五百台弱だから、あまく見ても、失敗ではなかつたとするのが、精一杯ではなからうか。それなのかどうか、ライツ社は、一世代に三機種を用意する気をなくしたらしい。昭和四十二年のM4以降、ライカは一世代一機種の伝統を長く保つに到るのだが、それは横に措かう。

 

 實は何年かに一度、M1が慾しいなと思ふことがある。

 目測でも卅五ミリレンズなら、何とか使へさうなのが理由のひとつ。叉卅五ミリ用のブライトフレイムは内藏されてゐるから、アクセサリ・シューに、単獨の露光計を乗せられるのも、理由のひとつ。ビゾフレックス…近接と望遠撮影用に用意された、ミラーボックスの方…を組合せたら、物々しくて恰好よささうに思へるのも、理由に挙げていい。それを實際に使ふかどうかは別の話で、M1は

 「ボディとレンズがあれば、今すぐ大抵そこそこ撮れる」

デジタルカメラとは趣の異なる不便と、アクセサリ次第で、(一種の)万能性を得られる…知識と経験は多少、求められるけれど、それくらゐは引き受けなくちやあ…樂みの象徴としての機種になるかも知れないと思ふ。

 とは云へ。元々の製造台数が少い上、M2に改造された個体も相応にあるだらう。(死藏も含めて)ユーザー、オウナーだつてゐると思へば、入手出來る(だらう)数は、製造台数より遥かに少いと見立てるのが正しい。令和六年の今、幾らで出てゐるかは知らないけれど、値札を目にして、これなら買ふのも惡くないとは、きつと思へまい。縁があれば、ライツのズマロンや、コシナのカラースコパー附け、したり顔を決めたいと、何年かに一度は思ふのだが、實現はどうやら、六つかしからうな。