閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

1178 それならそれで支障のないおでん

 おでんが食べたい。

 不意にさう思つた。

 大根、玉子、厚揚げ。

 結び蒟蒻、牛すぢ、餅巾着。

 平天、牛蒡天、飯蛸。

 纏めてではなく、一皿に二、三種くらゐづつ。

 一皿ごとに、コップ酒を一ぱい、平らげるとしたら、三杯か四杯に収まつて、詰り呑みすぎにはならない。

 おでんとコップ酒で始めて、おでんとコップ酒で終へればの話だから、些か怪しい仮定ではあるけれども。

 「おでんなんか、その辺のコンビニエンス・ストアで、幾らでも、賣つてゐるぢやあないの」

といふ指摘は正しい。序でにカップ酒の一本も買へば、陋屋で直ぐ、おでん酒にありつけるのは確かである。とは云ふものの、それがおでん酒を樂むことなのかと考へれば、どうもさうではないらしいとも思ふ。

 陽の暮れた夕方、寒風に身を竦め、肩に変なちからが入つてゐるのを感じながら、呑み屋の暖簾をくぐり

 「寒うて、かなンなあ」

とか何とか、ぼやきつつ、品書きに目を通すふりをして

 「お酒を一ぱい、ほんで大根と厚揚げを頼みます」

さう註文してやうやく、冒頭の"おでんを食べたい"気分が満たされる…気がする。要するに夕刻とか寒風とか、固つた肩とか、暖簾の向ふから聞こえる、いらつしやいの聲とか、先客のざはめきとか、さういふのも全部、おでん酒の味に含まれるので、すりやあ外で呑みたい理窟でせうと云はれたら、認めるのに吝かではないが、その気分に目を瞑れるひとは、コンビニおでんをレンジで温めなほしてもらひたい。呑み屋が無駄に混雑せずに済むから、こちらとしても有難い。

 ところで私はおでん屋で呑んだことがない。卑下でなければ、自慢でもない、ただの事實。勿体無いと云へなくもないが、おでん屋で呑みたいと思つた記憶がない…念を押しておくと、おでんで呑みたいのとは別の話…のも、もう一方の事實である。おでん屋に偏見があるのではなく、偏見を持つには一ぺんでも、足を運ばねばならないから、単に切つ掛けを掴み損ね、損ね續けただけだと思ふ。

 きつとうまいんだらうと、想像は出來る。ちやんと下拵へをした種を、ちやんと取つた出汁で煮れば、まづくなる道理がない。ただそれで、上に挙げた種を幾つか摘み、コップ酒でも徳利でも、兎に角二合かそこら、呑んだとして、御勘定がどうなるものか。こつちはおでんだから

 「高くついても、三千円でお釣りが出るモンだらう」

と思ひたい。併しおでん屋にはおでん屋の理窟があるだらうから、いいお出汁を取り、下拵への手間暇を含めて云ふなら

 「三千円ぢやあ、儲けになりませンがな」

反論される可能性がある。さう云はれたら、おでんの値段に就て疎い私としては、同意を横に置きながらも、そんなものですかと応じざるを得ず…いやお財布に気を遣ひながら呑むのほど、詰らない態度もあるまい。

 そんな風に考へてゆくと、三千円を握つて、風に背を押され、ふらふらと(その辺の)(馴染んだ)安呑み屋に潜り込み、焼酎ハイでもつ煮と串焼きをやつつけた後、コップ酒と共に摘むおでんが、私には一ばん、似合ふのだなと思へてくる。それならそれでかまはないし、叉それでうまいのが、おでんの有難く、嬉しいところである。