東海道新幹線に乗るのは、私の場合、それ自体が目的でもある。今回の第卅七のぞみ號だと、東京新大阪間はたつた二時間半だけれど、その辺の気分は変らない。
尊敬する内田百閒は、汽車ぽつぽに乗りたいと考へ、お金を誂へて(先生の場合、借金なんだが)、阿房列車を運行さした。顛末を詳かに記した(と思はれる)「特別阿房列車」によると、当初は午后早い時刻に東京驛を出る特別急行で大阪驛まで往き、半時間後に大阪驛を出る寝台急行で東京驛に帰る算段だつた。車窓からの風景を眺め、お附きのヒマラヤ山系氏とお酒を酌みかはすだけならそれでいいのに、わざわざ一泊にしたのは、寝台急行の切符が泊るより高くつきさうなのと、夜行列車では外が見えなくて厭だといふ、合理性と情緒性の混つた事情。移動じたいを目的といふ、徹底した判断であつた。尤も百閒先生に限らず、随筆の巧者は、事實と誇張と省略と虚構を平気な顔で同等に扱ふから、「特別阿房列車」のどこまでが實態なのか、甚だ疑はしい。
偶々手近に新潮文庫版の『第一阿房列車』があつた。表紙は特別急行列車はとの展望車輛のデッキで、車掌の扮装をした百閒先生が、厳めしい顔で立つてゐる。喜んでゐるのか、困つたことをさせると苦々しく思つてゐるのか、よく判らない。あのひとは面倒、訂正ややこしい、更に訂正、複雑な思考をするから、冩眞に撮られるのは迷惑千万だけれど、車掌になれるのは嬉しく、併し本ものの車掌に失礼ではないかと気を揉みもして、冩眞機の前で落ち着かない心持ちだつたのではなからうか。この辺りは車掌の扮装で、展望車輛のデッキに立ち、冩眞に撮られないと想像が六つかしい。頁を捲つて、新潮文庫版は現代仮名遣ひに改惡されてゐたのを思ひだした。弟子筋のたれだつたか、某氏が現代仮名に馴れたわかい讀者向け、改変を施したと記憶してゐる。手元の旺文社文庫版(こちらは"第一"が附いてゐない)は、歴史的仮名遣ひのままで、こつちの方が断然、讀み易い。字面も文章の大切な要素なのを、某氏が知らなかつたとは思へないんだが、まあそれは措いて、現代仮名遣ひでも面白いものは面白い。
ところでこの「特別阿房列車」、列車に乗つた後より、体感で全体の三分ノ二ほどを占める、發車までのくだりの方が樂める。金策、時刻表、お供の撰定。二等車の乗客に就て。東京驛で切符が手に入つたのを喜んで呑んだヰスキィ。不意のお見送り。汽笛が一聲嘶けば、キッド皮の深護謨靴を履いた百閒先生と、"持つたら手がよごれさうなボストンバッグ"を手にした山系氏を乗せた第三はと號は、鐵路大阪驛を目指すのみ。いや正確には、大坂で一泊して、東京に戻るのみだもの。既に阿房列車の目的は達せられた。…と、ここまで書いて、今回の[丸太花道、西へ]も未だ新幹線に乗つてゐないことに気がついた。意図した積りではないけれど、どうやら私は「特別阿房列車」から多大な影響を受けてゐるらしい。出來の良し惡しは別だから、念を押しておく。それにこれから第卅七のぞみ號に乗る男は、蜻蛉を切つて東京驛を目指すわけではない。
東海道新幹線に乗る前の話…正しくは令和六年の東京での呑み屋納めの話をする。廿一日土曜日。西上の前々日を撰んだのは、翌廿二日日曜日が宿醉ひでも、その一日がクッションの役を果して、廿三日の頭の奥が憂鬱にならないだらうと考へたからである。我ながら少々せせこましい態度に感じられなくもないが、第卅七のぞみ號で麦酒と葡萄酒を樂む為の用心はしておきたい。とここまで書いてから、尊敬する吉田健一の『汽車旅の酒』を手に取つた。「道草」といふ短い随筆に、自分が乗る列車の發車時刻より半時間くらゐ前には驛に行き、何とかいふ食堂で生麦酒にハムエッグスを摘み、驛で過ぎる時間が他所とは異なるのをその麦酒で、"食い止めるのではなくて、何と言うのか、味うのである"といふ一節に突き当つた。今の東京驛構内に、さういふ暢気な食堂はなからうが、東京驛の構内でなくても、"道草"を喰ふのは惡くない。實際に喰ふかどうかはその日に任さう。
それで出掛けた。出ると云つたつて、私が呑みに出るのは中央総武緩行線の大久保驛から東中野驛を経て中野驛の間に限られる。更に知つた店にしか足を運ばないのが原則でもあるから、どこに入らうか迷ひもしない。大久保驛東中野驛中野驛を順に巡らうかとちらと考へたが、梯子酒は体とお財布の両方に好ましくない結果をもたらしかねず、さうなることを私は望まない。椅子からも梯子からもずり落ちるのは厭である。失敗しない、叉は失敗の可能性を出來る限り抑へたければ、表に出ないのが最良の撰択であらう。ぽくぽく歩きながら、今からでも遅くはない、マーケットで罐麦酒やお摘みを買ひこめば、安全ではないかと自分に云ひ聞かせた。併し別の自分が、呑みたい気分が色濃くなつてゐる今から、引つ返せやあせんよと反論して、さうかうしてゐたら、呑み屋の看板が目の前に現れた。仕方がない。歩ける範囲で呑めば、梯子の段数は少く済むと頭の中の議論は打ち切つて、こんばんはと云ひながら店に入つた。
何を呑んで、どれくらゐ醉つたかは触れない。前段で呑み屋納めの話をすると云つたのに、えらく端折つたねえ、さう厭みを云はれさうだが、特別の酒肴を樂んだわけでもなく、その気が失せた。普段通りの呑み方で済ましたのは、この手帖を書くにあたつて、話の種が減つてこまることだけれど、話の種を得るのと穏やかに呑むのを較べれば、後者が優先されるのは念を押すまでもあるまい。お蔭で宿醉ひに悩まされずにも済んだ。もう廿三日になつたのである。
暫くは明朝ちやんと寝床から這い出られるかどうか、心配をしなくてもいい。後は東京驛午后一時半發の第卅七のぞみ號に乗るだけになつた。朝は即席珈琲にポテトサラドを乗せたトースト。流石に起きだして直ぐ、麦酒を呑まうとは思はない。併し旅行先ならさうでもない…といふより、朝から呑まねばと思ふのは何故だらう。百閒先生は時間帯を弁へて呑み、吉田健一は(旅先に限つてではあつても)隙あらば朝から寝床の中でも呑むひとだつた。自宅の延長か自宅から離れたか、さういふ位置附けのちがひと云ふべきなのか知ら。陋屋を出るのはお辨當と罐麦酒と大坂へのお土産を買ふ時間を見越さねばならない(正午前には出たいものだ)と考へながら、洗濯機を使ひ叉食器を洗つた。荷造り…といふより、大坂に持つて帰らうと思つた物は、既にデイパックに詰めてある。都合よく進みすぎてゐるとも思ふが気は樂でいい。
午前十一時過ぎ、陋屋を出た。發車時刻から、随分と早さうに感じられるるかも知れないが、一体に私は時間ぎりぎりで行動出來にくいたちなのだ。余裕があるに越したことはあるまい。旧國鐵中央線快速で東京驛。お土産その他を買はうとすると、混雑してゐたから驚いた。どの顔を見ても、急ぎの用事がありさうにない。甚だ迷惑でにがにがしく思つた。尤も必要な買ひものは直ぐ終つたから、あの混雑は見せかけだつたのかも知れない。東海道新幹線のホームに上がるにはちと早い。小腹が空いた気もする。罐麦酒(スーパードライ)とクラッツを買ひ、待合室で始めた。御行儀はたいへん惡い。とは云へ百閒先生だつて、驛の食堂でヰスキィの一盞を樂んだのだ。これくらゐは勘弁してもらはうと思ふ。スーパードライを平らげてホームに上り、喫煙所で煙草を二本吹かした。これから新大阪驛の喫煙所まで吹かせない。東海道新幹線も非文化的になつた。
入線した第卅七のぞみ號の十三號車四番のD(通路側)が私の指定席。窓側のE席にお客がゐなかつたから、品川驛か新横浜驛までは何もすまいと思つた。新横浜驛を發車すれば、次の停車は名古屋驛だから、勝手次第である。隣席の乗り降りを気にしなくていいのは、のぞみ號の利点と云つていい。品川驛で小父さんが四番のE席に坐つた。新横浜驛の辺りでヱビス(東京驛開業百十年記念)とお辨當の蓋を開けた。腹積りの通り、日本食堂社のチキン弁当(消費税込九百円)かういふ腹積りは大抵の場合、その日の品揃へを目にして、がらりと変るのに、我ながら珍しい。チキンライスと鶏の唐揚げに申し訳程度の添へものの組合せは、文字通りのチキン弁当であつて、仮にスパゲッティのケチャップ炒めや、昆布の佃煮が追加されたら、それはもう六十年の伝統を誇るチキン弁当ではなくなつてしまふのだらう。
さう思つてゐたら、我が第卅七のぞみ號の窓から富士の御山が見えた。姿を見る機會に恵まれる都度、頭の中で頭を雲の上に出しと唄ふのが私の常なのだが、廿三日の静岡は呆れるくらゐの好天。山腹を覆ふ雲はまつたく見えない。ただ分厚く覆はれてゐればゐたで不満なんだから、静岡人は気にしなくともよろしい。御山は未だ冠雪に恵まれず、おつむりのさみしい大柄な老人のやうに感ぜられた。既にチキン弁当とヱビスは空になつてゐる。予め買つておいた二本目、合同の浅草ハイボールを開けた。罐に"電氣ブランサワー"とあつたから試す積りになつたのだが、あまりうまくない。電氣ブランといへば、田原町に松か竹か梅か菊か藤か、兎も角も芽出度い名前の呑み屋があつた。いつも七人とか八人とか集つて大騒ぎし、最後に註文したのがカレーのルと電氣ブランだつた。やや甘くち、併し明かに摘みになる味附けに仕立てたのを木の匙で掬ひ、小さなコップにすりきりまで注がれた…表面張力の意味を私はこの時に理解した…電氣ブランを、口から迎へにいつた。割つてゐなかつたから、まつたく濃厚な口当りだつたが、ルと組合さると素晴しい〆になつた。さういふ記憶…思ひ出があるからわざわざ撰んだのに、電氣ブランつぽい、實は甘くてかるいだけのサワーでは納得し難い。合同酒精社には襟を正し、改めて気合のこもつた"電氣ブランサワー"をつくつてもらひたい。意見の具申はどうすればいいのか知らと確める前に、第卅七のぞみ號は間もなく新大阪驛に着到すると車内放送があつた。こののぞみ號は博多行だから、うつかり過ごすわけにはゆかない。慌てて降りる用意をした。二時間半の乗車時間はまつたく短い。"軽食 のぞみ號(麦酒あり〼)"があつけなく閉店するのだから、全三回に及んだこの稿も終りになる。竜頭蛇尾と思へなくもないが、阿房列車の運行だつてさうだつたのだ。気にはすまい。