實は同じ曲を、[742 好きな唄の話~Spain]で、取りあげてゐる。あの時は、ボビー・マクファーリンの聲との組合せだつた。"好きな唄"の点からは反則で、併しボビーは唄つてゐたのだからと、押し通して書いた。
ここで取りあげるSpainに、唄ひ手は登場しない。
代つて登場するのは上原ひろみ…即ちピアニスト。
小さな(實際はどうだつたらう)ライヴハウスに、二台のピアノが置かれ、向ひ合つてふたりは坐る。チック・コリアがいきなり、弦を弾きだし、上原ひろみが応じる。チックが導き、ひろみが切り返す。始まりは、そんな感じ。
ふたりの掛け合ひと指は、ごくなだらかに鍵盤へと移るんだが、チックの先行は変らない。アド・リブだらう音を仕掛け續け、ひろみの眼は笑みを浮べ、指がそれを追ふ。
「ヒロミ、キミはきつと、ついてくるね」
「ええもちろん」
音樂家の理窟なぞ、丸で解さない私の耳でも、さういふやり取りは、何となく判つた。ボビーが聲で掛け合つたのと、まつたく異なつて、成る程これは樂器を通した會話らしい。
あの有名なフレイズを最後に、それ…即ち惡戯小僧と年下のお姉さんの間で繰り広げられるやうな…は、区切りを迎へる。何と優雅で複雑な時間だつたことか。
モニタの前で手を拍ちながら私は、言葉でない會話が、唄に変じて感ぜられることに、驚いてゐたのだつた。