閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

1205 論じてはいけないポテトサラド

 最近、ポテトサラドを食べてゐないのです。

 その辺りの呑み屋の品書きに、大抵はあることくらゐ、知つてゐます。併し残念ながら大抵は、"まづくない"に留まつて、積極的に

 (ここで呑む夜には、欠かせない)

と云へるポテトサラドには、出會つてもゐなくて、かねがね困つたなあと思つてもゐるんです。

 そんなに八釜しいことを云ふのでは、ないんですよ。

 うでた馬鈴薯は念入りに潰し、あはすのは

 炒めた玉葱。

 崩したうで玉子。

 刻んだ胡瓜とハム。

 薄切りの酸つぱい林檎。

であつてもらひたい、それだけですからね。林檎の季節でないなら、八朔でもかまひません。気障な黑胡椒なんか、要りませんよ。パセリくらゐはあつてもいいけれど。ね。六つかしくも何とも、ないでせう。

 こんな風に書いたら、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏で、眉を顰めながら

 「ポテトサラドに林檎(乃至八朔)を使ふんですか」

疑念を口にするひとが出さうです。気持ちは判らなくもありません。が、用ゐるのはあくまでも、酸味の効いた林檎ですし、たくさんは入れませんからね。マヨネィーズ獨特の甘みと、果實の酸つぱさが、よく似合ふんです、いや本当に。

 そのままでうまいのは勿論、チーズと一緒にトーストしてもうまいです。

 お摘みにするなら、醤油を忍ばせたり、とんかつソースを垂らすのも、惡くないと思ふです。ここで繰り返すと、六つかしくも面倒でも何でもありません。かう書くと更に

 「馬鈴薯を潰しすぎるのは、感心しませんねえ」

と云はれさうです。御説御尤も。マーケットのお惣菜賣場に並ぶポテトサラドで、"ほくほく"とか"ごろごろ"とか、附いてあるのは、珍しくありませんし。それに馬鈴薯の扱ひは全般、ほくほくが好もしいのは、私も同意するところです。

 と云ひながら、ポテトサラドに限つて私が、しつとりねつとりをもつて諒とする理由は

 「最初に食べたポテトサラドの馬鈴薯がさうだつたから」

以外に見つけるのは困難です。食卓に並ぶ食べものへの感覚は結局、少年期に馴染んだ見た目、匂ひ、歯触り、舌触り、喉越し…詰り兎にも角にも、味と呼ぶしかない何事か…に、どこかしら縛られるのでせう。我が親愛なる讀者諸嬢諸氏にだつて、ポテトサラドかどうかはさて措き

 (これはかういふ味はひ)

といふメニュのひとつやふたつ、きつとあるでせう。さうに決つてます。たとへば焼きめしを取つても…力こぶを作ると切りがなくなりますね、ここは我慢します。

 併しどうも私のなずんだ、軟かな仕立ては、ポテトサラド界だと、少数派らしく思へます。メークインだの男爵だの、熱心なひとは云ひますが、さういふ人びとが"ごろごろ・ほくほく"派なのはまあ間違ひありますまい。念入りに潰すのがどうかう云つても

 「はあさうですか」

百閒先生の阿房列車随行した、ヒマラヤ山系氏のやうな応答しか返つてこないでせう。そこでポテトサラドの味が、使ふ馬鈴薯によつて、如何に変化するものか、滔々と論じられなければ、かまひません。私は私で、私好みのポテトサラドを摘むのみですから。

 

 そもそもポテトサラドが、論じる対象ではなく、食べるものなのは、云ふまでもありません。思ひ出は大切ですが、思ひ出として隣に措き、今夜はこれから、そのポテトサラドを肴に、罐麦酒を一本、呑むことといたします。