最近、ポテトサラドを食べてゐないのです。
その辺りの呑み屋の品書きに、大抵はあることくらゐ、知つてゐます。併し残念ながら大抵は、"まづくない"に留まつて、積極的に
(ここで呑む夜には、欠かせない)
と云へるポテトサラドには、出會つてもゐなくて、かねがね困つたなあと思つてもゐるんです。
そんなに八釜しいことを云ふのでは、ないんですよ。
うでた馬鈴薯は念入りに潰し、あはすのは
炒めた玉葱。
崩したうで玉子。
刻んだ胡瓜とハム。
薄切りの酸つぱい林檎。
であつてもらひたい、それだけですからね。林檎の季節でないなら、八朔でもかまひません。気障な黑胡椒なんか、要りませんよ。パセリくらゐはあつてもいいけれど。ね。六つかしくも何とも、ないでせう。
こんな風に書いたら、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏で、眉を顰めながら
「ポテトサラドに林檎(乃至八朔)を使ふんですか」
疑念を口にするひとが出さうです。気持ちは判らなくもありません。が、用ゐるのはあくまでも、酸味の効いた林檎ですし、たくさんは入れませんからね。マヨネィーズ獨特の甘みと、果實の酸つぱさが、よく似合ふんです、いや本当に。
そのままでうまいのは勿論、チーズと一緒にトーストしてもうまいです。
お摘みにするなら、醤油を忍ばせたり、とんかつソースを垂らすのも、惡くないと思ふです。ここで繰り返すと、六つかしくも面倒でも何でもありません。かう書くと更に
「馬鈴薯を潰しすぎるのは、感心しませんねえ」
と云はれさうです。御説御尤も。マーケットのお惣菜賣場に並ぶポテトサラドで、"ほくほく"とか"ごろごろ"とか、附いてあるのは、珍しくありませんし。それに馬鈴薯の扱ひは全般、ほくほくが好もしいのは、私も同意するところです。
と云ひながら、ポテトサラドに限つて私が、しつとりねつとりをもつて諒とする理由は
「最初に食べたポテトサラドの馬鈴薯がさうだつたから」
以外に見つけるのは困難です。食卓に並ぶ食べものへの感覚は結局、少年期に馴染んだ見た目、匂ひ、歯触り、舌触り、喉越し…詰り兎にも角にも、味と呼ぶしかない何事か…に、どこかしら縛られるのでせう。我が親愛なる讀者諸嬢諸氏にだつて、ポテトサラドかどうかはさて措き
(これはかういふ味はひ)
といふメニュのひとつやふたつ、きつとあるでせう。さうに決つてます。たとへば焼きめしを取つても…力こぶを作ると切りがなくなりますね、ここは我慢します。
併しどうも私のなずんだ、軟かな仕立ては、ポテトサラド界だと、少数派らしく思へます。メークインだの男爵だの、熱心なひとは云ひますが、さういふ人びとが"ごろごろ・ほくほく"派なのはまあ間違ひありますまい。念入りに潰すのがどうかう云つても
「はあさうですか」
百閒先生の阿房列車に随行した、ヒマラヤ山系氏のやうな応答しか返つてこないでせう。そこでポテトサラドの味が、使ふ馬鈴薯によつて、如何に変化するものか、滔々と論じられなければ、かまひません。私は私で、私好みのポテトサラドを摘むのみですから。
そもそもポテトサラドが、論じる対象ではなく、食べるものなのは、云ふまでもありません。思ひ出は大切ですが、思ひ出として隣に措き、今夜はこれから、そのポテトサラドを肴に、罐麦酒を一本、呑むことといたします。