閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

1207 曖昧映画館~仮面ライダーオーズ 将軍と21のコアメダル

 正確なタイトルは以下の通り。

 

『劇場版 仮面ライダーオーズ WONDERFUL 将軍と21のコアメダル ディレクターズカット版』

 

 長い。實にといふか、無駄にといふか、兎に角長い。それに、サブタイトルにあたる部分が、何を示してゐるのか、さつぱり判らない。序でに云へば私は、テレビジョン版のオーズをまつたく観てもゐない。それでも一時間余りを、たつぷり樂めたのだから、よく出來た一本なのだと思ふ。

 何故だらうと考へるに、第一に"仮面ライダーのルール"は崩れてゐなかつたことを挙げたい。主人公は善人で、惡のたくらみを、最後には必ず打ち砕くのは最初からはつきりしてゐる。だから安心してゐられる。

 第二には、"仮面ライダーの名を借りたお祭り映画"だつたからだと思ふ。劇場版なのだから、豪華なゲストを迎へたのは勿論で、惡役(正確には惡党に体を乗つ取られた姿)を、酒井美紀が演じてゐる。いいですね、この俳優とキャラクタを逆転さした配役。

 併し酒井には申し訳ないが、もつと大物が出てゐて、たれかと云へば松平健

 ごく簡単に、この映画の筋に触れると、仮面ライダー御一行さまが、惡の錬金術師の企てで、江戸時代…江戸城下に飛ばされてしまふ。巻き込まれた少年の母親…錬金術師に体を乗つ取られた…を救ふのと同時に、現代に戻つて、その企てを粉砕しなければならず…単純明快で宜しい。

 

 で。その飛ばされた江戸時代は、八代将軍である徳川吉宗の治世下。かう書けば、松平健の役柄はもう判りますね。貧乏旗本の三男坊こと徳田新之助、實は"暴れん坊将軍"こそ、かれである。東映のえらいひとは一体何を考へて、企劃を立て、實現さす気になつたのか、すつと理解出來るひとが何人ゐることだらう。正直なところ、観終つた後も、私には理解出來なかつた。

 "暴れん坊将軍"…ここからは上様と呼びますよ…とオーズの共闘が、中盤のクライマックス。惡の錬金術師が送り込んだ怪人とその手下聯中が、オーズ一行に迫り、追ひ詰める。危ふし、我らのヒーロー。そこに蹄の音が響き渡る。白馬に跨がり、羽織袴を纏つた新之助、訂正、上様の登場である。何と云ふ恰好よさ。

 そこからオーズと上様が並び立つのだが、ふたりを囲む怪人とその手下の姿勢や位置の取り方が、アクションシーンのそれではなく、殺陣のそれになつたのが、可笑しかつた。抜刀した上様が、(我われがよく知るとほり)峰打ちでかまへ、手下聯中をばつたばたと倒してゆく。流石に若き日の切れ味には及ばないにしても、めり張りの利いた動きには、手を拍つのを我慢するのは無理だつた。

 

 この場面で、上様に峰打ちで倒される手下の役は、競争率が非常に高かつたさうだ。すりやあ、さうだらうな。私がその場にゐたら、きつと手を上げるし、打ち倒される役になれたら、残る生涯、繰り返して自慢するもの。それに撮影も、京都組(時代劇担当)の気合ひが凄かつたといふ。何しろ『暴れん坊将軍』は、あれだけ長期に渡つて放送されたのに、映画化はされなかつた。"上様の銀幕デヴュー"に泥を塗るわけにはゆかなかつたのだらう。

 

 話はここから現代に戻る。惡党は滅び、こぢれかけてゐた少年と母親の関係も、本來の姿に戻り、すべてはハピー・エンディングとして結實する。次期テレビジョン・シリーズの主人公であるフォーゼが、顔見せ程度に姿を見せる場面は、余計に思へたけれど、これは劇場版仮面ライダーのお約束らしいから、目を瞑りませう。

 併しこの映画は矢張り、上様と云はざるを得ない。

 「余の顔を見忘れたか」

 「上様がこのやうな場所にをられる筈はない。ええい、斬れ、斬り捨てい」

が無かつたのは残念だつたが(脚本上、無理だつたのは判つてゐますよ)、オーズが怪人に止めを刺さうとする時

 「成敗!」

と決めてくれたのは、かうでなくちやあいかん、と溜飲の下がる思ひだつた。と、ここまで書いて、仮面ライダーと上様は、何故こんなに相性がよかつたのだらうと思つた。

 

 大掴みに云ふなら、仮面ライダーオーズと、上様の持つ御都合主義の融合が、この映画だつたのではなからうか。徳田の新さんは、突然に現れた未來人一行を、その行動から惡人ではないと見抜くし、ライダーはライダーで、ピンチに姿を見せた素性の知れない、えらさうなお侍の助太刀を、何の疑念もなく受け入れる。こんな展開は、遠山の金さんや、桃太郎侍が跋扈するくらゐならまだしも、鬼の平藏と火盗改メが見廻つてゐる江戸の町が舞台だつたら、脚本は破綻以前に成り立つまい。仮面ライダーを時代劇の世界に飛ばさうとするのは、頭の螺子が(何本か)欠けてゐないと浮ばないとんちきな發想だが、その時代劇世界に上様の御代を撰んだのは、天才的に莫迦げてゐると云はざるを得ない。その結果、不意の空き時間、なーんにも考へず観るのに、似合ひの一本が誕生したのだから、映画といふのは解らないものだと思ふ。