閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

1214 改めてコロッケに目を向けて

 椎名誠の小説だったか、主人公の若ものが、コロッケを摘みに麦酒を呑む場面があった。いやそうではなく、コロッケを摘みに麦酒を呑むのが好きだと、たれかに云ったのだったか。どちらにせよ、それのくだりで

 (成る程コロッケと麦酒ね)

妙に感心した記憶がある。それで暫く、コロッケ・ビアというのか、ビア・アンド・コロッケなのか、晩酌にしていた時期があった。今も偶にやっつけたくなるから、影響は小さくなく…我ながら単純だなあ。

 

 云うまでもなくコロッケは、西洋渡りの一品。ざっと調べた限り、大正頃までは、"高級な食べもの"だった。その頃の若ものが口にするのは、六つかしかったんではないか。

 併し令和の今、コロッケは鯵フライやハムカツやミンチカツと並んで、"揚げもの大衆路線の四天王"の一角を占め、"高級な一品"と結びつけるのは少々六つかしい。

 などと云ったら、コロッケの有識者から

 「丸太はクリームコロッケを知らないらしい」

厳しく批判される可能性がある。いや私が巷間の諸々色々を知らないのは、その通りだとして、流石にクリームコロッケは知っているし、自慢ではないが、食べたことだってある。その上で云えば、あちらはクロッケット族でしょう。馬鈴薯を用いるコロッケ族とは親戚ではあっても、同列に位置附けるのは、不正確な態度かと思われる。

 

 (小聲になるが、ナイフとホークで食べるコロッケは、コロッケではないよと、つけ加えたくもある)

 

 馬鈴薯と挽き肉と玉葱。

 私が晩酌で嗜んだのはこういうコロッケだったし、椎名の小説に登場した若もの(今にして思えば、その姿は筆者じしんの反映だったのだろう)が、麦酒のお供に樂んだのもきっと、同じだったろう。

 ここで、コロッケは麦酒の最良の友なのかと、疑念が浮んでくる。もっと広く、食卓酒席のどこに置くのが望ましかろうかという疑念。

 麦酒のお摘みなら、鯵フライやハムカツ、ミンチカツには稍及ばず、ごはんの隣人としても、何となく主役は任せにくい。驛辨の隅っこに半切れ、慎ましくあれば嬉しいけれど、無いなら無いで仕方ないかとも思える。

 呑み屋の卓だって、気紛れに註文はしても、今日は何がなんでもこいつで一ぱい呑まなくちゃあ、収まらない…と考えたことはない。要するに食卓でも酒席でも、もの凄く曖昧なのが、コロッケの立ち位置なのだと思う。

 この点はまあ、不思議に感じる必要はなく、我われは食卓や酒席の主役に据えるほど、馬鈴薯料理に親しんでいないからと理解すればいい。踏み込むと話がややこしくなるから、これくらいで留めるけれども。

 

 そこで改めてコロッケに目を向ければ、食事やお摘みというより、ちょっとした腹の虫抑え…おやつ代りにするのが、最も樂めそうに思われる。

 休日の午后遅く。

 コロッケはかるく潰し、穴を空け(ホークでも菜箸でも)、ウスターソース…お好みで、すりおろし大蒜(チューブ入りがあるでしょう)を少し、隠しておくのもいい…を垂らす。穴はソースを中に染ます為。

 ウスターソースは月並みだと思うなら、カレーの余りに浸してよく、ミートソースやトマトソースがあるなら、それを使ってもいい。

 食パン(八枚切りがいい)に、塩でしんなりさした千切りキヤベツを敷き、マヨネィーズをひとぬり。芋々しいのがお望みなら、軟らかく潰したポテトサラドにする手もある。そこにコロッケを乗せ、温めておいたトースターで焼く。十分に焦げたら出來上り。凝り性のひとは、好きに凝ればいい。別に止めはしないから。

 手を動かしながら、罐麦酒を一本空けられる程度の手間である。焼き上ったらそいつを囓って二本目を開ける。窓の外は晴れている方がいい。平らげて晝寝をすれば、駄目な小父さんの気分を満喫出來るし、そのささやかに堕落した気分も叉、素晴しい後味になる。尤もあの小説の若ものからは、そんなおままごと趣味はいかんのだと、咜られそうではある。