閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

1216 御先祖はM2

 ライカ史を俯瞰した時、機能とスタイリングは、昭和七年のⅡで一応が纏り、昭和十五年のⅢcで完成した。念を押すとこれは、現代のM11(だったか)まで含めて云うんである。

 そのM11の御先祖は、デジタル初代のM8から更に遡り、昭和卅三年のM2まで辿り着く。こう書くと、熱心なライカ愛好家から

 「丸太は昭和廿九年のM3を知らないのか」

指摘され、もしかすると笑われる可能性もあるけれど、私だってM3は知っている。ライカ史上だけでなく、冩眞機史上に巨大な足跡を残しているのも。

 併しその偉大さは認めつつ、M3は遂に後継機を得なかったとも思う。見立てとしては、寧ろⅢcの

 ねぢマウントをバヨネット

 巻き上げをノブからレヴァに変更し

 50ミリレンズを使うファインダまで改良した

これまでのライカの集大成と位置附ける方が、私としてはしっくりくる。異論反論が出るだろうが、M3の話をしたいのではなかった。

 ここで手元にある『ライカポケットブック 日本版』のM2項を見ると

 「高価なM3の普及機として計劃され」

と書いてある。Ⅲcには廉価版のⅡcと"學術用"を謳つたⅠcがあったし、昭和卅四年にはM1が出てもいるから、無理な当て嵌め方ではない。ではないが、M2は35ミリのフレイムを組み込んだ一点で、M3と決定的に違っていた。詰り普及機との位置附けは、単純に過ぎる見方と云える。そのM2式ファインダはM4以降、M11まで引き継がれ、話が冒頭に戻る。ね、中々ロジカルでしょう。

 上のポケットブックも含め、M2に就て改めて確めると、細かな違いがあって實にややこしい。ざっと見ただけでも

 巻き戻しへの切り替えがボタンかレヴァか。

 セルフタイマーの有無。

 基本はクロームだが、少数のペイントもあり。

 基本はウェッツラー製だが、少数のカナダ製もあり。

ブライトフレイムの採光窓にも、形状の違いがあり、更にはM2Mと呼ばれるモーター附きや、M2-Rと呼ばれるフヰルム装填方式を変更したモデル、軍用もあるそうで、修理による部品交換、ユーザの求めに応じた改造が施された可能性まで考えれば、オリジナルの状態で残るM2の数は、製造台数(九万台足らず)に較べて、かなり少そうな気がされる。

 こうなると当時のライツ社は、何を考えていたのか知ら、と思いたくなるし、正直なところ、想像も六つかしい。Ⅲcに異様なヴァリエイションが生れたのは、戰時下という特異な時期を挟んだ混乱が背景にあった。M4-2の時は、ライツの屋台骨が歪み、がたぴし軋んだ音を立てていた事情があった。翻ってM2/M3の時期は、ライツ社の最盛期だったと思うと、首を傾げざるを得ない。ひよつとして

 「M3に35ミリのブライトフレイムを取り入れる」

ことだけを企劃して、細かな点は、造りながら手直しする積りだったのだろうか。

 

 Mバヨネット・マウントを採用した機種で二番めに慾しいのが、私の場合はM2である。M3もきらいではないが、正面から見た時の枠の附け方が、何というか、M2に較べてぼってり野暮ったい。尤もM2を手に入れられる見込みは非常にひくい。M2なら何でもでいいのではなく、製造最終年に限るからで、ポケットブックによると六十台。余程の幸運に恵まれない限り、無理だろうな。

 附けるなら、同世代の35ミリ・ズマロンがいい。こっちは千六百本余り造られたらしいから、六十台に較べれば(較べるものでもなかろうが)、まだ入手出來る可能性はある。ありそうな気がする。ズミクロンやズミルックスでないのは

 「普及機として計劃され」

た(らしい)なら、レンズも叉その方がよかろう…ねぢマウントのは中々よく冩つた記憶がある…と思うからである。それにこのレンズは、中々姿が宜しく、M2との組合せで、ライカの訳知りを気取れる期待も持てる。實際に贖ふかどうかはさて措いても、こういう変な点、空想の買物と云ってもいいが、それをああだこうだと喋れるのは、ライカ相手の時くらいかと思う。

 

 それはそうと、私が一ばん慾しいライカは。