閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

1219 つくねの謎

 串焼きの盛合せは私の頤を解かしめる。

 本道でないのは判っています。ハラミでもネギでもタンでもレバーでもシシトウでもニンニクでも、食べたい順に焼いてもらう方が好もしいし、うまくもある。とは云え焼き場の手が塞がり気味なら、ひとまずは盛合せにしておけば、安心出來る。物足りない分は、後から追加すればよろしい。

 それに盛合せの場合、単品では頼まない串が混ざることがあるのが樂い。人並みより好き嫌いは多いたちの私だが、こういう時は、多少我慢してでも食べる。それが案外とうまかったりして、撰べない不自由も、決して惡いだけではないのだと思えてくる。

 一方でレギュラーを張りながら、どうも馴染みきれない種もあって、私の場合つくねが、それにあたる。

 念を押すと、きらいではない。

 自分からは、頼まないだけで。

 まずいとも思わないが、素晴しくうまいと感じた経験も殆どなく、殆どと云う以上、例外はあった。

 今は無くなった某店。チェーンの呑み屋なのに、女将さんが割りと気儘にお試しを作る癖の持ち主で、蓮根を刻んだのとか、軟骨を砕いたのとか、そういうつくねを焼き

 「ちょっと、味を見てくださいな」

出してくれることがあった。私の舌なんざ、大した出來ではないし、女将さんもそれは知っていた筈だから、サーヴィスの一種だったのだと思う。蓮根入りや軟骨入りが、格別にうまかつた記憶はないが(試作なんだもの、当然である)、樂みの味は別枠であろう。女将さんは今、獨立して、自分の城を構えているらしい。こういう記憶が残っている辺り、私にとって喜ばしいつくねは、少いのだろう。

 ところでつくねは漢字の"捏(ネ)"を宛てる。字を見ると、ああそうかと判る。因みに云えば、似たつみれには"摘入"の字が宛てられる。こちらも字から聯想が働く。

 そこから考えるにつくねの味は、何を捏ねてどう焼くかの二点に集約されると思われて、所謂"素材ノ味"とやらを重く視る人びとには、不向きなのだろうが、そっちはまあ、放っておきましょう。

 要するに下拵えの工夫なり手間なりと、それを適切に焼き上げる技倆の合体が、こっちの舌に適うのかどうかが、つくねの面白さ六つかしさと云っていい。すりゃあ串焼きの中だと、博奕に近い種と位置附けたくなりもする。なので盛合せが出されたら、解けた頤を戻し、最初につくねを一粒…と数えていのだろうか…、そのまま食べる。その夜の口に適えばよし、でなければ、七味唐辛子を振るなり何なりする。

 あれ。ここまで書いてやっと気がついたのだが、もしかして私は、あれこれ云いながらも、つくねに人一倍、興味を抱いてはいないだろうか。